内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「なつかしい」場所へと帰りたい読書

2021-05-20 23:59:59 | 雑感

 現にある社会の中に生きているのだから、その社会の構造と機能をよりよく理解して、その社会の中でよりよく生きることを私も願いはするものの、そのためにあれこれと最近刊行された本を読むのは、正直なところ、私にはあまり楽しくありません。
 なるほどと得心させられたり、我が意を得たりと膝を打ったり、そうだったのかと目から鱗が落ちたり、読んで損したと思うことはほとんどなく、それらの優れた本の著者に感謝の気持ちを懐くことも一再ならずあります。読む前にある程度当たりをつけて選別して読んでいますから、それは当然といえば当然の結果です。
 ところが、そういう本を立て続けに読んでいると、だんだん虚しくなってきてしまうのです。それはまったく読んだ著作のせいでもその著者のせいでもなく、もっぱら私の側の感じ方の問題です。なんというか、呼吸が浅くなってしまうというか、見えているつもりで実は何も見えていないのではないか、あるいは、こんなことが本当に大事なのだろうかと懐疑的な気持ちになってしまうのです。授業の準備の必要上それらの本を読むことで職業上その恩恵に大いに浴しているわけですから、その点、文句を言う筋合いではありません。それ以外の読書における私の側の選択の問題です。
 何か要領を得ない話になってしまいましたが、一言で言えば、「ここは自分の居場所じゃない」という違和感が私の読書を別の方向へ向かわせたということなのです。
 たとえば、座談会「近代の超克」を授業で取り上げ、亀井勝一郎がその座談会のために書いた論文と座談会での発言とを読み直したことをきっかけとして、彼の未完のライフワーク『日本人の精神史』(全四巻 講談社文庫 1974~1975年)をところどころ読み直したとき、「なつかしさ」をしみじみと感じたのです。それは「ここが自分の生まれ育った場所だった」という感覚に近いと言えます。また、その後、吉川幸次郎の『古典について』(講談社学術文庫 2021年 初版1966年)を読みながら、その学問的姿勢に対する畏敬の念を新たにし、小松英雄の『いろはうた』(講談社学術文庫 2009年 初版1979年)を何十年かぶりに再読しながら、大学一年のときに受けた先生の授業のことを思い出し、梅原猛の『美と宗教の発見』(講談社文庫 1976年 初版 1966年)を同じく何十年ぶりに読み返しながら、自分が学問の道を志しはじめた頃のことを回想しました。
 これらの読書傾向が示しているのは、未知なるものへの憧憬でもなく、失われたものへのノスタルジーでもなく、いつまでもそこにいたいと思わずにはいられない「なつかしい」場所に私は帰りたいということなのだと思います。