内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

暗き世の燈火 ― 柳田國男『火の昔』の教え(承前)

2021-05-14 02:30:26 | 読游摘録

 柳田國男の『火の昔』について、まだ二つのことを記しておきたい。今日の記事ではそのうちの一つを話す。何も勿体をつけているわけでも、出し惜しみをしているわけでもなく、ただ記事があまり長くなりすぎないようにするためである。
 その一つとは、昨日引用した「はしがき」の段落の後の最後の段落にある言葉についてである。長くはないから、段落全体を引こう。それは、すでにご存知の方には無用ではあるが、まだ読んだことのない方たちには是非読んでいただきたいと思うからである。たとえ拙ブログを日頃読んでくださっている方は少ないとしても、それらの方々と、そして今日の記事に偶々行き当たられた方たちとも、柳田のこの文章を是非一緒に読み味わいたいからである。そして、これをきっかけに一人でも『火の昔』を手に取って読んでみようという気を起こされる方がいたら、私はそれをとても嬉しく思うだろう。

 今まで聞いたことがないというような話を、若い人たちにして聞かせるのが、この本の目的であった。年とった者には、もうわかりきったことばかりで、つまらぬであろうと思うようであるが、実は私などもこれを書きにかかってから、あぶなく忘れようとしていたことを、思い出したものがいくつもあった。若い読者がもし声をあげてこの本を読むならば、そばで聞いていて、にこにこしだす人がきっと多いであろう。どうかそういう人たちの思い出話を注意して聞きとり、あるいは私の本の中にあるかと思う誤りの点を、二つでも三つでも見つけ出すようにしもらいだい。それもまた今後の学問の、進んでいくべき一つの道である。

 この一節を読んで私が特に心を動かされたのは、「若い読者がもし声をあげてこの本を読むならば、そばで聞いていて、にこにこしだす人がきっと多いであろう」という一文である。今、私たちはこのような耳で聴く読書体験をどれだけしているであろうか。しかも、若い人が読むのを年長者が聴き、懐かしさに微笑むというような経験が果たしてあるかどうか。とても想像しにくい。柳田はどうしてこう書いたのだろう。
 この本が最初に出版されたのは昭和十八年のことである。それから二十年後に書かれた石原綏代の解説から十八年当時の様子を叙した一節を引用しよう。

 この本のできた時期についてもう一つ大事なことは、これがあの激しい戦争のさ中に書かれたことであります。昭和十八年といえば東京では敵機の来襲に備えて燈火管制がしだいにきびしくなり、はなやかな町の灯は消え失せて、人々は月の光や星のきらめきをたよりに夜道を歩かねばならなかったころでした。また、燃料はしだいに乏しくなり、一かけの炭や小枝もたいせつにしてわずかの火で煮たきをし、寒さをしのぐ工夫をしていた時でした。暗い世相の中で誰もが火の光の明るさと暖かさに飢えていた時期に、こういう時こそ火の問題について考えるのに絶好のおりであると先生は感じられたに違いありません。その当時から二十年を経て、あのような不自由さは夢のように忘れ去られる幸せな世の中となりましたが、今でも僻地といわれる村には電気の通じていない所もあり、この現代の幸福をともにわかち合うことのできない人々が日本の国内にもまだいるのです。そういう人たちはどういうあかりで夜をすごしているのでしょうか。

 このような状況下、まだ電気もなかった昔の人たちの生活の中の火をめぐる種々の話を綴ることは、昔を懐かしむためではなかったことは言うまでもない。今の世の中が昔と比べてどれだけ明るくなったのかを知るには、燈火しかなかった時代の苦労を思い起こしてみるにしくはない。そして、世は常に変わっていく。別の意味で、そしてもっと深刻な意味で「暗い」今の世もまた変わっていくはずだ。戦時の過酷な状況下にあった当時の人たちとその苦難を共に経験しながら、どうか未来への希望を失わないようにと柳田は願いつつこの本を書いたのではなかっただろうか。そして、その希望を、懐かしさとともに世代を超えて分かち合うべく、若い人たちがこの本の文章を声に出して読み、それを聞いている人たちが思わず「にこにこしだす」姿を願いつつ本書を書いたのではなかっただろうか。
 一つの学問のほんとうの火種とは、このようなところにあるのではないかと私は思う。