内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

辞書の中に言葉の意味はない ―「単語あって文章あるにあらず、文章あって単語あるのである」

2021-05-27 14:41:34 | 読游摘録

 昨日の記事の末尾で、吉川幸次郎の辞書批判についての私の考えを今日の記事で述べると書いた。が、実は只今、学年末試験答案の採点と学期中に提出された課題(これがうんざりするほど沢山あって、こんなに課さなければよかったと今頃になって後悔している)の評価とを並行して行っていて、あまり時間に余裕がない。が、答案と課題を朝から晩まで読み続けるのは明らかに心身に毒なので、ときどき好きな本を読んだり、お気に入りの音楽を聴いたり、今そうしているようにブログの記事を書いたりして、息抜きしている(息抜きの時間の方が長いのではないかという批判的な意見もあると聞くが、それは却下する)。
 さて、昨日引用した文章の中で吉川が実例として挙げているのは「よい」という一語のみであり、どんな国語辞典にも載っており、日本人にかぎらず、日本語を少しかじっただけの人でも知っている日常語だが、まさにそうであるからこそ、私たちはそのような「わかりきった」言葉を辞書で調べたりしない(私にはそれが面白いのですが、その話はまた別の機会に)。
 そういう言葉を辞書で調べてみても、なんらの発見もないかも知れない。特に一般の国語辞典の場合、用例は乏しく、語義の説明を読んでも、それでその語が実際どう使われるのかよくわからないことも少なくない。その言葉の用法の広がり、類義語との弁別を可能にする微妙なニュアンス、文章の中での他の語との組み合わされ方によって変幻する意味などは、現実の文章の中で捉えていく他にない。その言葉の微妙な意味の生動を文章の中で捉え、それを逐語的に説明していくのが注釈の基本である。しかし、事は注釈のみに関わることではない。
 「最初から辞書を引くな。わからない単語・文だらけでもいいから、めげずに前に進め。最初は文章を眺めるくらいのつもりでもよい。とにかく量を読み、その中に繰返し出てくる言葉・表現にまずは注意せよ。そして、二回目に読むとき、その言葉がどんな語と結びついて出て来ることが多いか、どのような文脈で出てくるかに注意しなさい。そしてそれら言葉の姿をそのまま掴め、訳そうとするな。訳すと、訳しか頭に残らないから」と、私は常日頃学生たちに繰返している。一言で言えば、言葉をその生きた形のまま現場で掴め、ということである。
 辞書を引いたら単語の意味がわかり、その単語が使われている文章が理解できるようになるというは、実は錯覚である。言葉の意味は生きた発語や書かれた文章の中にしかない。意味は、発語や文章の外にそれだけで保存できるものではない。したがって、辞書に意味は載っていない。
 西田幾多郎の『善の研究』の序のかの有名な一文「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」を恐れ多くも捩ることがもし許されるならば、「単語あって文章あるにあらず、文章あって単語あるのである」と私は言いたい。