内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

高校における哲学教育が大学の日本学科で役に立つとき

2021-05-09 18:45:38 | 講義の余白から

 「上級日本語」の課題として、平均二週間に一回、小論文を課す。今学期は計六回。明日が第六回目の作文の提出期限である。最低八〇〇字というのはこれまでの課題と同じ条件だが、今回は最終回ということで上限なし。一昨日あたりから届き始めている。今回の課題は、昨年も扱った主題をめぐる問いだが、昨年より難易度を上げた。昨年は、「わかる」と「理解する」との違いを述べさせたのだが、今年は、授業中に私が示した両者の違いについての説明を前提として、「自文化は理解可能か」という問いに答えさせた。なかなか興味深い回答が返ってきている。すでに添削を終えた十三本の小論文のうちで私が最も高く評価しているのは、「わかっている」状態を説明するのにプラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」を援用したもの。その後半を引用しよう。

 この現象は哲学者プラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」に比べられます。確かに、洞窟に住んでいて、縛られていて、動けない人は、洞窟の壁に映る影は彼の社会だと思い込んでいます。そして、洞窟人にとって影は彼の社会、彼の文化で、自然的で唯一の事実なので、その文化の規則の理由を説明できず、理解することができません。あるとき、一人の洞窟人がその洞窟から出ることができたとき、彼だけが自文化の規則の理由を説明できて、自文化を理解することができました。
 それゆえ、自文化を理解するために、自文化から離れて、その歴史を学んで、その価値観や慣例の原因を理解する必要があります。例えば、自文化の歴史を見ると、異性愛が自然な状態と思われている理由は中世において、戦争時、多数の戦士を必要としたので、人口を増やすために、同性愛を禁止したことにあると言われています。それを理解するために、自分の社会の文化から離れて、異性愛は「自然な状態」であるとする通念からも離れる必要がありました。
 しかし、外に出た洞窟人が自文化を理解することができたのは、他の文化を身につけたからで、それによって彼の自文化に変化が起こり、新しく身につけた文化と比べることによって元の自文化を理解しました。故に、自分の社会を離れて自文化を見るときはじめて、本当にそれが自分の文化だと言えるのではないでしょうか。

 これを書いた学生は、毎回思慮深い内容の文章を書いてくれるのだが、この学生にかぎらず、要求したわけではないのに、哲学者を引用する学生が毎回必ず何人かいる。私が哲学を専門としていることを意識してのことかどうかはわからないが、感心するのは、それらの引用が付け焼刃でなく、面白い着眼点を示していることが多いことだ。それから、これはたまたまに過ぎないと思うが、哲学者を引用するのは女子学生に多い。これは私の勘繰りだが、彼女たちは、高校三年次文系理系を問わず必修科目でバカロレアでも同じく必修である哲学をかなり真面目に勉強したのではないかと思う。日本学科における他の授業で哲学の知識が役に立つことはほとんどない(と思う)が、私の授業ではそれが大いに役に立っているようである。これまでにも、アリストテレス、スピノザ、ライプニッツ、ルソー、カント、ニーチェなどを引用した小論文があった。もちろん、私はそれをとても嬉しく思っている。
 日本の高校で哲学が必修になる日が来るとはとても思えないが、もしそんな日が来るとすれば、それは日本の社会が大きく変わるときであろう。