内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

希望は生命の形成力にほかならない ― 三木清「希望について」より

2021-05-05 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が修士一年の演習の後期最終回でした。この後期はずっと三木清の『人生論ノート』を読んできたのですが、今日読んだのは「希望について」と「旅について」でした。後者については、時間が足りなくて、二三箇所私が気になるところを指摘したにとどまりました。それだけ「希望について」に対する学生たちの反応が活発だったということなのです。
 このエッセイも構文的にはとても平易で、学生たちの訳も概ね良くできており、その点特に問題にすべき箇所はほとんどありませんでしたので、内容的にちょっとわかりにくいところ、大切なことが言われているところにかぎってテキストを見ていきました。それらの箇所についてまず私の方から学生たちに質問し、それに対する彼らの回答を受け、それらにコメントし、ついで彼らからの質問を受け、それに私が答える、あるいは答えのヒントになる別のテキストに言及したりしながら、読み進めていきました。
 例えば、次の段落は学生たちからの反応がもっとも活発でした。それだけ彼らの心にも響くものがあったようです。

 愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現わすとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び付かなければならない。

 表面的に読めば、愛もまた運命である、愛が運命から解放されるためには希望と結びつかなくてならない、となります。ところが、希望と結びついた愛が運命から解放されるとすると、第二段落第一文「希望は運命のごときものである」や第五段落の「運命であるからこそ、そこに希望もまたあり得る」などのテーゼと矛盾しているように思われます。これらのテーゼが、運命を受け入れて生きるからこそ希望することもまたありうるのだということを言おうとしているのだとすれば、上掲の段落で言われている「希望によって運命から解放された愛」というのはそもそもありえないのではないか、というのが私からの質問でした。
 学生たちからはそれぞれに一考に値する異なった読み方が提案されました。それらを勘案して、一応次のような解釈に落ち着きました。
 ここでの「解放される」は、運命から離れるとか自由になるという意味ではなくて、必然としての運命によって愛が縛られるとき、それでも愛がそのことを受け入れ、その束縛の中でなお持続するためには希望が必要だということである。そもそも希望なき愛などあり得るのだろうか。
 このエッセイを演習の最終回にもってきたのは意図的でした。今とても困難な状況に置かれている彼らとこのエッセイを一緒に読むことを通じて、以下のようなメッセージを彼らに伝えたかったのです。
 三木清が言うように、希望は、欲望でも目的でも期待でもない。希望は生命の形成力そのものである。私たちは生きているかぎり、希望する存在なのだ。個々の具体的な希望は実現に至らないことも、失望に終わることもあるだろう。運命の重圧におしひしがれて前に進めないこともあるだろう。しかし、そのことは私たちが希望する力を失ったことを少しも意味しない。生きているかぎり、私たちはいつもすでに希望しているのだ。