昨日の記事の末尾で予告したように、吉川が一九四六年当時の日本の自然科学が置かれていた状況について見解を述べているところを見ていこう。
仁斎、徂徠の儒学が、経書の解釈において清朝の儒学の精緻さを欠くのは、研究対象言語が自国語でないというハンディキャップによってのみ説明されるものではなく、なお他に原因があり、その一つが昨日の記事で取上げたような日本の学問の習慣にあると吉川は見ている。
そこからいきなり過去から現在へと、つまり一九四六年へと話が飛ぶ。しかも吉川自身のフィールドである人文科学についてではなく、自然科学についてである。この飛躍の理由はよくわからない。日本の再建にとってその要となるべき自然科学の振興が当時しきりと叫ばれていながら、それに見合うだけの成果が上がっていないことを吉川が深く憂慮していたからだろうか。しかし、敗戦からまだ半年である。まだ成果が上がっていないという当時の事実が問題というよりも、なぜそうなのかに吉川の関心はある。つまり、このままだといつまでたっても成果を上げにくいのではないかと懸念しているのだろう。
その理由の一つとして、「わが国人の学問に対する考え方に、何か欠陥があるのではないか」と吉川は推測する。その欠陥とは「個人の能力への過度の信頼」である。こう書いたとき、吉川は何か具体的な事例を念頭に置いていたのであろうか。それはともかく、個人の能力頼みでは、たとえその研究者個々の能力が傑出していたとしても、学問の十分な発展は望めないということはわかる。
「現代の精緻な自然科学に於いて必要なものは、チーム・ウォークである」という吉川の見解にはおそらく当時の当事者たちも今日の研究者たちも異存はないことと思う。確かに、「学問は個人のものという考え方」が支配的では、チーム・ワークの発展は阻害されるだろう。私には、吉川の見解が当時の自然科学研究の諸分野の趨勢についてどこまで妥当性をもっているのか判断できない。自然科学では、当時すでにチーム・ワークの重要性を説く人たちがいたことは吉川も認めているから、吉川の主たる憂慮は、やはり文化科学でも必要とされるチーム・ワークについての認識が学界でまだ乏しいことにあったのだろう。
自然科学に触れた一段落の後、話がまた過去に戻る。このチーム・ワークの困難は過去の中国でも同じであった、と。そこからは吉川が知悉している分野の話である。しかし、筆を急いだのか、紙面の制約のせいなのか、論旨明解とは言えない。正直に言えば、吉川が何を言いたいのか、よくわからない。
チーム・ワークの必要性、学派としての持続性、世代を超えた学統の形成、これらは同じ一つの問題ではない。日本では、テーゼに対して軽卒にアンチテーゼが悪意とともに飛び出し、学派が成立しにくい、乃至は成立しても永続しにくいと吉川は言うが、それをチーム・ワークの不在で説明するには無理がある。中国では、「将来に対する期待が、あまりにも漠然とした、散漫なものであるために、テーゼは出たままで、しぼんでしまう。」それにもかかわらず、吉川が言うように、学問の精緻化が中国の儒学では可能だったとすれば、テーゼの持続性は学問の精緻化の必要条件ではないということになるだろう。
学問の精緻化には個人の努力を超えた学派としての数世代に渡る営々たる積み重ねが必要であるのはそのとおりだと私も思うが、そのような学派が形成されにくい、あるいは永続しにくいとすれば、その原因は別のところにあるのではないだろうか。仲間内で議論するばかりで、それを超えて他の流派・分野の人々と正々堂々、真剣かつ公平に議論を戦わせ、それを通じて横のつながりを形成する「公共」の場の不在にこそ求めるべきではないであろうか。晩年の丸山眞男が「他者感覚のなさ」と指摘した点である。
吉川が「学問のかたち」を書いた年から七十五年後の今日、学問が置かれている現代日本の状況は当時と大きく異なっている。自然科学、人文社会科学を問わず、短期で成果を上げることを求められ、予算の配分は短期的な必要に応じて重点的に配分され、長期に渡ってチームを組んで持続的に一つの大きなテーマに取り組むことはきわめて困難になっている。これではそもそも学派など形成しようがないが、学派がなければ学問は成立しないというものでもないであろう。問題はもっと深刻なのだと思う。
学問を国家の都合に奉仕させようとするだけで、学問の自律と自由を保証しない国家は、まさにそのことによって遅かれ早かれ衰退していく。日本はそんな国ではないと「部外者」である私は自信を持って言うことができない。