内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ポスト・ヒューマニズムとしての「近代の超克」と「近代」の多義性

2021-05-03 23:59:59 | 講義の余白から

 今年度の講義もあと二週間を残すのみとなった。その後二週間の準備期間を与えて学年末試験を受けさせれば今年度の授業予定はすべて終了である。もっともその試験のあとに「楽しい」採点業務が待っているが、今からそのことを考えて溜息をついても仕方ないから、考えないようにしている。
 火曜日の「近代日本の歴史と社会」では、残りの二回で「近代の超克」について話す。1942年の座談会「近代の超克」を戦中日本の思想史の一齣として歴史的文脈に位置づけた上で、問題としての「近代の超克」を、十九世紀後半から二十世紀全体にかけて近代思潮史の広い思想的脈絡の中で読み直し、さらには二十一世紀に私たちが直面している困難な問題と関連づけて「近代の超克」問題のアクチュアリティにまで、駆け足にはなるが、説き及ぶつもりである。
 このような意図からまず提示するのが、鈴木貞美の大著『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後」』(作品社 2015年)の冒頭の段落、つまり、序章「いま、何を問うべきか」「一、地球環境とグローカリゼーションのなかで」「1、ポスト・ヒューマニズム」の最初の段落である。

 今日、人類は、地球資源の枯渇への道をひた走り、また地球環境の汚染と破壊を招き、自分で自分の首を締めつつある。人類は自然環境なしに生きることはできず、他の生物とともに生き延びるしか道はない。人類が生き延びるには、西欧近代が生んだ人間中心主義による自然征服観と生産力主義から脱却し、自然環境と生物の生命の存続をはかるポスト・ヒューマニズム、その意味での「近代の超克」の立場に立たなくてはならないことは誰の目にも明らかになっている。その考えが一九七〇年代から国際的に合意され、今日ほどひろがった時代はない。だが、先進国と開発途上国の格差、途上国間の資源保有の問題などが絡み、「持続可能な発展」の名の下に、依然として、地球環境の汚染と破壊に対する歯止めはかかっていない。

 この段落だけを読むとき、「近代の超克」が「ポスト・ヒューマニズム」に同定されており、ヒューマニズムはほとんど人間中心主義の同意語のように見なされかねないという問題があるが、それはひとまず措いて、「近代の超克」問題は、戦中の思想史の暗い一頁の話題として済ませることのできない問いを今も私たちに突きつけるものであることをまずは学生たちに理解してもらいたい。
 その上で、座談会「近代の超克」に参加した十三人中十人が提出した論文の抜粋を読みながら、彼らの「近代」理解のばらつきをテキストに即して確認していく。