渡辺一夫の『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社文芸文庫 2019年 初版は『私のヒューマニズム』というタイトルで1964年に刊行。本書の底本は『ヒューマニズム考――人間であること』講談社現代新書 1973年)の巻末の野崎歓氏による解説はこう結ばれている。
ポストヒューマンの時代の到来は押しとどめようがないと、だれもが考えがちないま、「無用なつぶやき」としてのヒューマニズム=ユマニスムをわれわれのうちで目覚めさせなければならない。その「無力らしく思われる心がまえ」に立ち返らないならば、人間の居場所はもはや決定的に失われかねない。そうなってしまわないためにもっとも大切なメッセージを、本書は「あなた」に向けて発し続けている。
今日ヒューマニズムを擁護する本(の解説)を書くとしたら、ポスト・ヒューマニズムに何らかの仕方で言及することはほとんど避けがたいだろうから、この解説にこの言葉がこのように登場しても、それ自体は驚きではない。しかし、ここで言及されている「無用なつぶやき」としてのヒューマニズム=ユマニスムがどのようなものか知るためには、言うまでもないことだが、本書の本体を読まなくてはわからない。そしてそうすることで、ポスト・ヒューマニズムについて喋々としかけていた私は、ちょっと恥ずかしくなって俯いてしまった。
といっても、非の打ち所がない議論に打ちのめされたというようなことではない。野崎氏も解説の冒頭で言っているように、「その文章は驚くほど平易でわかりやすい」し、ユーモアにも欠けていない。自分が生涯をかけて研究し、かつそれを生き方の基本に据えたことについて、このように読者に語りかけるようにやさしく書ける人はそう多くはないのではないかと思う。
ルネサンス期の若い学者たちの間でどのようにしてユマニスムが生まれたかを語った一節を読んでみよう。
一口にいって、ルネサンス期の若い学者たちが、当時の学問全般に、とくに神学に、こうした好ましくない傾向(些末な議論に淫すること=引用者注)が現れているのを感じ取って、「もっと人間らしい」学問にもどってほしいと叫んだのでした。したがって「人間らしい」ということは、このばあい、「哀れな人々に同情する。」とか、「人道的である。」とかいう意味ではありません。
思想・制度・機械……など、人間がつくったいっさいのものが、その本来もっていた目的からはずれて、ゆがんだ用いられ方をされるようになり、その結果、人間が人間のつくったものに使われるというような事態に立ちいたったとき
「これでは困る。もっと本来の姿にもどらなければならない。」
と要請する声が起こり、これが、「人間らしい」ことを求めることになるのです。
これがヒューマニズム=ユマニスムの原型であるとすれば、現代社会が直面する諸問題の原因の一つとして近代ヒューマニズムの行き詰まりを論うのはとんだお門違いだということになる。むしろユマニスムの起源の忘却こそ現代社会の危機的状況を招いた原因の一つだとさえ言いたくなる。この本来の姿としての「人間らしい」在り方は、人間のことを第一に考え、他のすべてをその下に置く人間中心主義とはまったく別のことである。