内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏空を「見しやそれとも分かぬ間に」、そして、思いもかけぬ空の思想のアクチュアリティ

2021-08-11 21:55:04 | 雑感

 4時48分から6時24分の1時間36分で15,5キロ走る。結構頑張ったつもりだが、目標の16キロには到達できなかったことを自宅に帰り着いてスマートウォッチで確認して少しがっかりする。明日から何日か距離を12キロに抑え、若干スピードアップして、6分で1キロのペースを体にしっかり覚えさせようと思う。
 脚の使い方はその日に履く靴に合わせられるようになり、かつ靴が足に馴染んできたからだと思うが、どこにも痛みが出なくなった。
 今日は日中爽やかな青空が広がる気持ちのいい日だった。気温も午後には25度を超えた。でも、空高く広がる鱗雲はもう秋の到来を告げている。積乱雲をこの夏ほとんど見ていない。場面はまったく異なるが、「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に」と言いたくなった。天気予報によると、日曜日までは30度近くまで気温が上昇するようだ。といっても、夜明け前の気温は16度前後、走るには好適だ。
 先週火曜日に終えた集中講義の最終課題のレポートが今日一つ届いた。その筆者である学生は学部四年生なのだが、大学院の先取り学習という枠で履修していた。2000字程度のレポートを課したのだが、なんと7400字近い力作をわずか一週間で書いてくれた。ハイデガーの「退屈」の分析を前提として、西谷の空の思想の積極性を浮かび上がらせるという構想で書かれていた。レポートのあとがき的な最終段落がことのほか私を喜ばせた。そのまま引用する。

このレポートを書く際に、退屈を扱ったのには個人的な理由がある。それはまず、西谷のテキストを読んで以降、退屈を覚えることがほとんどなくなったということによる。電車を待つ時、バスに乗っている間、食事を待つ時、人と待ち合わせする時。その度に周りの環境の現れを注意深く見るようになった。場所を場所として、つまり世界を世界として、知っているものとして見るのではなく、「世界が世界する」、そういう現れを見るようになった。それは気晴らしにスマホでニュースを見たり、ゲームをしていた時よりも発見が多い。そして、それは自身の日常を肯定的に捉えるようになっているとも言える。人生は決して何もないものではない。虚無に留まらないあり方を空は教えてくれる。

 一人の学生がこう気づいてくれただけでも集中講義をした甲斐があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「身体がどこからはじまり、外部の自然がどこで終わるのか、といったことを定義することはできない」 ― ホワイトヘッド『思考の諸様態』

2021-08-10 21:43:42 | 雑感

 午前4時48分から6時18分までの1時間半で15キロ走る。多分もうこのペースで2時間走ることは難なくできると思う。五月半ばに水泳のかわりにウォーキングを始めたときには想像すらできなかったことだ。今日で35日連続走っている(数日のウォーキングを含む)。毎日走りながら、それが自ずと日々の自分の体の調子を観察することにもなっている。自分自身の体を使って運動の効果を実験しているようで面白い。
 ジョギングから帰ったら、すぐに靴底を洗う。森の中の土の道を走らなければ、それほど汚れるわけではないが、それでも路上の砂利やゴミなどが靴底のパターンの間に入り込んでいる。それらをすべて取り除く。仕上げにムース状のクリーナーを使うこともあるが、ブラシを使って水洗いすることが多い。ときどき洗剤を使うこともある。
 佐野眞一『旅する巨人』読了。同じ著者による『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫 2010年)を読み進める。すでに並行して読み始めていた。三分の一ほど読み終える。前著と重複する箇所も多いが、前著以後に参照した資料が取り込まれ、前著と同じ話題を取り上げている箇所でもより詳細な記述が見られることもあり、興味尽きない。
 今日もホワイトヘッドの『自然の概念』(1920)『科学と近代世界』(1925)『過程と実在』(1929)『観念の冒険』(1933)『思考の諸様態』(1938)を英語原書で拾い読みしながら、非連続の連続について考え続ける。

For example, our bodies lie beyond our own individual existence. And yet they are part of it. We think of ourselves as so intimately entwined in bodily life that a man is a complex unity—body and mind. But the body is part of the external world, continuous with it. In fact, it is just as much part of nature as anything else there—a river, or a mountain, or a cloud. Also, if we are fussily exact, we cannot define where a body begins and where external nature ends. 

Modes of Thoughts, The Free Press Paperback Edition, 1968, p. 21.

たとえば、われわれの身体は自分自身の個的存在を超えて位置している。けれども、その身体は、個的存在の一部なのだ。われわれは自分のことをこう思っている。つまり、人間というのは、身体で営む生活ととても親密にからみあっているから、身体と精神との複合体だ、と。だが、身体は外界の一部なのであって、外界と連続している。実際、身体は自然のなかのなにか、たとえば、川とか、山とか、雲といったものと同じように、まさに自然の一部なのだ。また、たとえわれわれが過度に厳密になろうとしても、身体がどこからはじまり、外部の自然がどこで終わるのか、といったことを定義することはできない。(『思考の諸様態』『ホワイトヘッド著作集13』松籟社、34頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夢見騒がし ― ホワイトヘッド、ドゥルーズ、空の思想 ― 爽快な青空

2021-08-09 18:07:07 | 雑感

 今朝はいつものように午前4時に起きることができませんでした。昨晩、珍しく、午前1時まで読書をしてしまい、さすがに3時間睡眠で起きるのがつらかったのです。それでも6時には起床しました。ただ、とても夢見騒がしく、目覚めたのちも不快な気分が身中に淀んでいて、すぐにジョギングに出かける気にはとてもなれませんでした。
 この夢見騒がしさは、ほぼ間違いなく、今月末までに原稿を仕上げなくてはならない日本思想関係の仏語事典の執筆項目のことが気にかかっているからです。一年以上前に依頼されていたことで今更言い訳は効きません。もちろん、忘れていたわけではなく、折に触れてメモは取ってきており、執筆するからには恥ずかしくないものを、他の事典にはない情報と視角と切り口を提示したいと準備してきました。
 午前中は、その執筆準備の一環として、ドゥルーズとホワイトヘッドのテキストを読み漁っていました。こういう、傍からは、なんでそういうことになるのよと呆れられなくもない、えらく迂遠な、上を下への大騒ぎ、実は嫌いではないのです。楽しんでいると言っても過言ではないかも。だから碌な仕事ができないのでしょうけれど。
 それらのテキストはこの事典項目執筆のためにかねてより念頭に置かれていたわけではもちろんなく、昨日、三木清の『人生論ノート』の中の「瞑想について」に出てくる「過程的」をどう一語でフランス語に訳すか頭を悩ませていたとき、ホワイトヘッドの『過程と実在』の仏訳を覗いてみてヒントを得られず、ドゥルーズの『襞』の第6章を走り読みしてやはり手がかりを得られず、「だめか~」とため息をついているとき、「あれっ、ホワイトヘッドの有機体の哲学って、先週終えたばかりの集中講義のメイン・テーマだった空の思想とリンクするじゃん」と、事典の執筆項目とはほとんど何の関係もありませんが、私的にはかなり重大なことに気づき、すると、思いもかけず、事典執筆項目の構想が形に成りはじめたのです。
 その形成過程は、それまで室内に散乱していた、一見相互に無関係なアイテムたちが、既存の秩序とは違った仕方で、新たな原則に従って、それぞれに所を得て、全体として一つの調和を成すように置き直されるような出来事で、これは一つの美の体験でもあるのです。私の小賢しい作為でそうなるのではなく、「自ずと」そう成るのです。
 「これでいけるかも」と原稿の構想がかなり明確になると、気持ちもそれだけ明るくなり、「じゃあ、走るか」という気に自ずとなり、11時過ぎにジョギングに出かけました。走る前のストレッチを省略したので、走り始めはゆっくり、後半盛り返すつもりで、ライン川土手に着いた地点からペースアップ。結果として、1時間26分で14キロ。目標より2分遅れ。でも、気分は今日の久しぶりの青空のように爽快でありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「大事なことは主流にならぬことだ」「枝葉のなかに大切なものがある」― 呼応する渋沢敬三と宮本常一の言葉

2021-08-08 22:54:58 | 読游摘録

 今朝も昨日同様、1時間12分で12キロ走る。途中ちょっとダレてしまったので、最後の500メートルほど、ほぼ全力疾走した。夜明け前の曇天下、体感に過ぎないが、ジョギング中の外気温は15度前後だったと思う。日中は晴れたが、気温は低いままで20度越えたかどうかというところ。
 佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫)をここ数日読んでいる。二人の伝記的事実を知れば知るほど、この書名はけっして誇張ではないと思う。と同時に、彼ら二人が「忘れられた日本人」になってしまったかのような日本の現状を憂えないではいられない。
 渋沢が宮本に語りかけた言葉として同書に引用されている次の言葉は、二人の生涯を知った上で読むとき、なおのこと心に深く響く。

大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ。(88‐89頁)

 宮本が若い人によく言っていたという次の言葉は渋沢の上の言葉と呼応している。

樹をみろ。いかに大きな幹であっても、枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて、幹を論じてはいけない。その枝葉のなかに大切なものがある。学問や研究はあくまで民衆や庶民の生活を土台に築き上げるものだ。(366頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


何かのためということもなく、先を急ぐこともなく、ゆっくりと本を読む愉しさ

2021-08-07 23:59:59 | 雑感

 午前4時50分から6時2分までの1時間12分でちょうど12キロ走る。1時間で10キロのペース。これまではだいたい1時間で9~9,5キロのペースだった。今日は試しに少しだけピッチを上げてみた。途中ちょっと苦しかったが、この程度のペースアップなら問題なさそうだ。同じペースで少しずつ距離を伸ばしていき、25日の第二回目ワクチン接種までに2時間で20キロは難なく走れるようにするのを当面の目標にする。
 この夏はよく雨が降る。冷夏はこの25年間に何度かあったが、こんなに雨が降った夏は記憶にない。7月以降、雨がまったく降らなかった日が何日あっただろうか。10日もないと思う。よく晴れた夏空など、数えるほどしか見ていない。ここ数日は日中の最高気温が20度を下回り、外出時半袖だと肌寒い。農作物への冷害もかなり深刻だ。天気予報によれば、来週火曜日からはしばらく夏空に恵まれそうだ。
 ジョギングと買い物のために外出する以外はほとんど家に居る。それで退屈することはまったくない。久しぶりに、授業の準備や研究のためではなしに、先を急ぐこともなく、ゆっくりと本を読む時間を楽しんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ワクチン第一回目接種後40時間で接種部位の筋肉痛は完全に解消する

2021-08-06 23:59:59 | 雑感

 昨晩早めに就寝したので、午前三時頃に目が覚める。接種後40時間ほど経過したその時点で接種部位のしこりはまったくなくなっていた。すでに接種を終えた知人の話やネットで収集した情報からしても、第一回目がこの程度で済むのはごく一般的な経過のようだ。
 早朝ジョギングに出かけようと4時過ぎに着替え、書斎の窓を開けると、ざあざあ降り。出鼻を挫かれる。読書しながら、雨が小降りになるか止むのを待つ。6時少し前、雨止む。でも、またいつ降り出すかわからない空模様。この機を逃してはと、直ちにジョギングに出かける。まだ濡れている路面で買ったばかりのシューズを汚したくないので、去年買ったシューズを履く。一応ナイキ製だが安物で、やっぱり履き心地がまるで違う。一言で言えば、ソールの作りがチープで、接地の際に脚がそれだけ地面からの衝撃を受けやすい。できるだけその衝撃を小さくするように脚を前後に滑るようにスライドさせ、体の上下動を最小限に抑えて走る。脚に痛みが出たらすぐに歩きにしようと思いながら走ったが、結局1時間40分で15キロ走る。
 ワクチン接種を早めに受けようと思えば、勤務大学の医務課で五月から可能だったのだが、万が一第二回目接種後の副反応で仕事に差し支えができてはいけないと思い、夏休みまで待った。二回目は今月25日だが、これは新学期開始のちょうど一週間前になる。これも副反応のせいで仕事が滞らないようにするためであり、また、第二回目接種後一週間後から有効化する衛生パスポートを新学期開始時までに取得できるようにするためである。
 第二回目の副反応がどの程度になるかは実際に接種してみなければわからないから、今から心配してもしょうがない。それまでせいぜい走り込んで体調を万全にしておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ワクチン第一回接種翌日の状態報告 ― ジョギング二時間、まったく問題なし

2021-08-05 19:16:59 | 雑感

 今朝4時起床。覚醒時、前日のワクチン接種部位である左上腕部に、腕を前方あるいは上方に動かすと、痛みというより、いくらかのしこりを感じる。でも、昨晩の状態と比べて、ほとんど変化がない。というわけで、5時半にジョギングに出発。
 走りはじめてすぐ、ほんのわずかだが、接種前より体が重く感じられる。しかし、同様な日毎の変化はワクチン接種以前にもあったから、ワクチン接種のせいだとは断定できない。とはいえ、万が一の突発的な体調不良の発生の可能性を考慮し、最初の10分間は自宅を中心とした半径数百メートル内をトロトロ走りながら様子を見る。特に問題はなさそうだ。
 そこで、マルヌ・ライン運河沿いの遊歩道を北西に向かって走り続ける。途中、これまでにない苦しさを感じれば、いつでも運河から東南方向に転じて最短距離で自宅に戻ることができるようにこのコースを選んだ。1時間近く走ったところで、朝日が草原上の雲間に昇るのが右手に見える。眩しい。美しい。もっと先まで走りたくなる。
 運河沿いに10キロ走ったところで折り返す。走り始めより体が軽い。ジョギング程度の腕の振りではまったく痛みはない。折返し地点からシュバルツシルトの山稜が見渡せる。これ、想定外。金色の雄大な風景にちょっと涙が出そうになる。結局、二時間走り続けた。19キロ走破。
 今、夕食後にこの記事を書いている。現時点でワクチン接種から約32時間余り経過。接種部位のしこりはほぼ消失。今日もお気に入りの赤ワインをボトル一本夕食時に空けてしまった。でも、まったく異常なし。ひょっとして赤ワインにワクチン副反応抑制効果があったりして? まあ、それはないだろうけど。
 明朝、いつものように目覚めることができたなら、夜明け前後、走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョギング、ウォーキング、ワクチン接種第一回目

2021-08-04 23:04:08 | 雑感

 5時半から6時45分までジョギング。自宅近くのマルヌ ・ライン運河(Canal de la Marne au Rhin)沿いの遊歩道を北西方向に1,5キロ走り、rue de la Robertsau と交叉するところで右折、Parc de Pourtalès まで東に向かって走る。公園内を走り抜けてから、市街を南西に下り、Robertsau の中心街を通り抜けて自宅に戻る。12キロ気持ちよく走れた。
 昨日は、演習の後、マルヌ・ライン運河沿いに片道4キロを往復し、1時間40分で10キロ歩いた。日に一時間半ほど数日間連続で走っていると、脚に張りが出てくる。そういうときは翌日はウォーキングにして脚を少し休めるようにしている。
 午前中、COVID – 19 の予防接種第一回目をストラスブール市のワクチンセンターで受けてきた。二週間ほど前にネット上で予約しておいた。夏休み中ということもあり、すいており、受付・問診・接種、接種後の15分間の安静、合わせて30分ほどで済んだ。ワクチンはファイザー社製。スタッフはみなとても感じがよく、テキパキと対応していた。自宅からセンターまでの約4キロ、徒歩で往復。第二回目はちょうど三週間後の25日に予約してある。
 接種後、日中はまったく何の副反応もなかったが、10時間ほど経過した午後8時過ぎから、接種した左上腕部を動かすと、接種箇所周辺に若干の筋肉痛を感じるようになった。発熱はない。体の怠さもない。明朝まで様子をみて、今以上の筋肉痛以外の特段の反応が見られない場合は、いつもどおりジョギングに出かけるつもり。
 ちなみに、昨日夕食時にも今日の昼食時にも赤ワインをボトル1本空けてしまった(一日一本という限度は守っている)が、アルコール摂取が原因と思われる特別な反応はない。ただ、ワクチンを打ってくれた看護師さんの「水分をよく摂取するように」とのアドバイスに従って、水分はいつも以上に摂取した(半日で2リットルほど)。
 第二回接種後のほうが強い副反応が出ることが多いようだ。それまでの体調管理には今まで以上に気をつけよう。場合によっては、プチ禁酒も真剣に考慮しなくてはならないだろう(と言っておく)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


遠隔集中講義本日終了 ― 日々眼前に立ち現れてくる何気ない事どもに注意深くなること

2021-08-03 19:23:39 | 講義の余白から

 今日が遠隔集中講義本演習第5日目、つまり最終日であった。7月19日に事前ミニ演習を開始し、28日までに1コマ1時間半の事前演習を計4回、29日から今日まで(日曜日を除く)の本演習の5日間、昨日までの4日間が二コマ(3時間)ずつ、今日だけ三コマ(4時間半)、総計15コマ(22時間半)をきっちり行った(その時間数に対して給与をいただくのだから当然のことですが)。
 4コマを前倒ししたことで本演習期間の時間的負担を軽減できたのは、私にとっても学生たちにとってもよい結果をもたらしたと思う。このような臨機応変な対応がより簡単にできるのは遠隔のメリットである。事前ミニ演習でお互いに少しずつ知り合ってから、本格的な読解作業に入ることができたことで、それだけ円滑なコミュニケーションができた。
 空の思想史についても西谷啓治の哲学についても、まったく予備知識を前提せずに始めた演習であったから、『宗教とは何か』を十分読み込めたとはとても言えない。ただ、これまで読む機会がほとんどなかった日本の哲学のテキストと格闘することを通じて、学生たちの視野が少しでも広がり、物事の見方が少しでも変わり、日常の現実がこれまで以上に面白いものに思えるようになり、もっともっと日々眼前に立ち現れてくる何気ない事どもに注意深くなってくれたとすれば、演習の目的は達されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「心得る」とはどういうことか ― 〈もの/こと〉のことなりのことわりをことわけること

2021-08-02 23:59:59 | 講義の余白から

 遠隔集中講義本演習第4日目。学生の一人の要望で、今日はいつもより一時限遅らせて、こちらの時間で9時半に開始した。日課のジョギングは早朝4時50分から6時半までに済ませておいた。15キロほど走った。今日は二コマとも一時間半を少し越えてしまった。前半は「五 空と時」を読む。『正法眼蔵』からの引用も多く、学生たちは難儀していた。禅仏教用語全般に不慣れな彼らには、それらの引用が何を言っているのかさっぱりわからない。それに、西谷の引用の仕方も親切とは言えない。本章は全体として議論が錯綜している。私にもうまく読み解けないところが多々あるが、この章でも、リアリゼーション(現成即會得)が議論の要であることに変わりはない。特に、『正法眼蔵』「生死」からの引用「生死すなはち涅槃とここえて……はじめて生死をはなるる分あり」について、この「こころえる」がリアリゼーションだと言っている箇所が注目される(『西谷啓治著作集』第十巻 200‐201頁)。
 後半は、昨晩学生が提出してくれたミニレポートの話題に応ずる形で、西谷を離れて、近現代日本における社会と個人の関係、現象学的還元と空の思想との接点、「〈もの/こと〉のことなりのことわりをことわけること」と私が定義する哲学の実践例などの話をした。