4時48分から5時48分までの1時間で10キロ走る。原稿執筆が終わるまでジョギングの目標値をこのように少し下げることにした。距離にして2キロ、時間にして12分、これまでの目標より減らした。それだけでも随分違う。走り終えたとき、少し物足りなさを感じるくらいだ。でも、この程度の運動量でも体調の現状維持には十分だろう。
今日から、日本語で書かれた哲学論文の仏訳の査読を始める。ストラスブール大学の哲学雑誌編集担当者から七月に依頼された仕事である。これも辞書項目執筆同様、八月末が締め切り。全集版で数頁の短い論文だが、その筆者である日本人哲学者が明治四十三年二十五歳のときに『哲學雑誌』に発表した論文であり、後年の独自な哲学において展開される諸問題のいくつかが萌芽的に含まれている点において興味深い論文だ。
仏訳者(匿名化されているので誰かはわからないことになっている)は、論文の筆者によって和訳のみが本文に引用されているすべての文献の欧語原典に当たり、それらの和訳と原典本文との異同を調べ、原典に忠実かどうか、どの点で原文から離れているかを脚注に丹念に示してある。この点、翻訳に伴う注解として模範的である。不足を言うとすれば、この論文が筆者のその後の哲学の展開にとってどのような意味を持っているかの説明が訳者序文の中にないことである。
さて、ここで第一問です。この日本人哲学者とは誰でしょうか?
ある語の定義をその原義に基づいて定式化することは、同じ語を使用してそれぞれに立論している複数のテキストの議論を手際よく整理するために有効な手段の一つだ。しかし、その定式化から逸脱する用法をすべて排除する本質主義は、まず、通時的観点から、その語の歴史的変遷を無視するという行き過ぎを犯している。他方、共時的観点から見ても、同じ語が分野によって多かれ少なかれ異なった意味で同時代に使われることは珍しいことではない。だから、ある概念とある語とを一対一対応させるような本質主義的記述は、通時的にも共時的にも、その語の本来の生きた用法のダイナミズムを見失わせる危険なしとしない。
私が担当する辞書の項目である一語は、一見この上なく単純な日常語であり、現在もその語を核とした種々の慣用表現がほぼ自明のごとく一般に流通している。ところが、戦後、その同じ語が文化主義的な普遍化の危険にしばしば晒されてきた。その語は、一意的に或る文化的価値と等価と見なされ、かつ他の文化には見られない日本独自のものの見方・文化的価値・世界観等を表現しており、したがって翻訳不可能であるという主張とともに、錦の御旗のように振り回された時期が七十年代末以降しばらく続いた。そのたった一語が、日本「独自」の文化を海外に向かって喧伝したい日本人たちも、その語の中に西洋には見いだし得ない「東洋的」で神秘的でさえある文化の粋を「発見した」と思い込んだ欧米人たちも熱狂させた。
この説明にはちょっと意地悪な揶揄と誇張があります。ここで、第二問です。この一語とは何でしょうか?