今日も両膝がだるい。走る距離を9キロに減らし、残り1キロは歩く。第二回目ワクチン接種の今月25日までは毎日走るつもりだが、日毎の体調と相談して、距離にはこだわらないようにする。接種翌日と翌々日は、体調にかかわらず、ジョギングは休む。ウォーキングも体調によりけり。少しでも懸念があれば、自宅で安静にしているつもりである。
生まれてこのかた基礎疾患がまったくなく、渡仏後25年間、手のかぶれで皮膚科に数日通ったことが20年近く前に一度あるだけで、それを除けば、健康診断書を発行してもらうため以外に病院に行ったことさえない。だが、過信や慢心は禁物だ。今回接種を受けるのは、少なくとも数年に渡る十分な治験を経ていないワクチンである。どのような副反応を起こさないともかぎらない。
万全の体勢で二回目接種に臨むべく、明日から断然禁酒する……のは、意志薄弱な老生には土台無理な話なので、節酒(接種とかけたオヤジギャクじゃありませんよ)することにした。明日から接種前日まで、一日のワイン摂取量をボトル半分に制限し、接種当日及び翌日(体調によっては翌々日も)禁酒することをここに誓います。まさに断腸の思いである。というわけで、今日は、この未曾有の過酷な試練に備え、一本以上飲むことを自分に許可した(って、あんた、バカなの?)。
さて、事典には実にさまざまな種類があるが、やはり論文とは違ったそれに相応しい文体がある。小生が常日頃親しんでいる事典は、Dictionnaire du Moyen Âge, PUF, 2002 ; Dictionnaire de l’autobiographie, Honoré Champion Éditeur, 2018 ; Vocabulaire européen des philosophies, Seuil & Le Robert, 2019 であるが、今回の項目執筆にあたってもお手本としてしばしば参照している。これらの事典はそれぞれに個性がある。当たり障りがなくて「客観的な」記述を踏み越えた知見が随所に披瀝されている。それがとても興味深く、かつ参考になる。
事典といえば、項目としては言葉が並んでいる。しかも、多くの場合、それらの言葉は名詞である。当たり前のことのようだが、今日、佐野眞一の『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫 2010年)を読んでいてハッとした。
渋沢敬三は、戦中、中世の絵巻物の中から今日の民衆生活につながるものを書き抜いて、字引きならぬ絵引きを作るという企画を立ち上げた。戦後、渋沢没後もこの企画は継続され、宮本常一はその中心的な役割を果たした。この企画は、『絵巻物による日本常民生活絵引』(角川書店 全五巻 1964年)として結実する(その後、総索引が別巻として増補された平凡社版が1984年に刊行される)。
この「絵引」の卓越したところは、衣類や帽子などの名詞だけではなく、「赤ん坊に乳をふくませる」「棒で叩く」「石を投げる」といった所作を示す動詞とも対応していることである。われわれはこれを活用することで、現代人が使っているモノや、現代人のふるまいや仕草が、昔どうだったかを一目瞭然に知り、同時にその変遷に思いをいたすことができる。(283頁)
事典的思考はとかく名詞中心になりやすい。しかし、私たちの生活はさまざまな動作・行為・行動からなっている。項目が動詞だけの哲学事典があってもいいのではないかとふと思った。