時間は昨日とまったく同じだが、今日は走るコースを途中から変えた。走り出してすぐどうも体が少し重く感じられ、もし自宅から遠く離れてしまったところでさらに体調が悪くなると、そこからの帰りがしんどくなるので、自宅を中心として半径1キロ以内をジグザグに走るコースに変更した。時速10キロのペースはもうほぼ身についているので、そのペースを守れば、コースにかかわらず、1時間10キロは達成できる。今日は1時間で10,2キロ。今日のシューズはミズノ Wave Inspire 17。
一昨日辺りからはっきりと現れはじめた体組成計の数値の変化は今日も同傾向を示している。体脂肪率が下がり続け、今日の計測では13,6%。この数値の推移は、運動量の変化だけをその要因としているのではないと思われる。というのも、ここ数日、鶏肉料理を中心としてタンパク質の摂取量を大幅に増やしているからである。このことも数値の変化と関係しているだろう。
さて、先日来、ある項目の原稿執筆を依頼されている辞書について何度か話題にしているが、言葉の意味を説明する言葉の辞典ではなく、それはヨーロッパ・アジア言語の中の数百の哲学・美学・批評概念を説明することを主旨としているから「事典」と呼ぶ方が相応しいだろう。
言葉の辞典にもそれぞれ個性があるし、記述のスタイルも一様ではない。しかし、語源・語義・語構成・用例・類語・対義語など、基本的な構成要素は共通している。それに対して、事典の方は、分野・目的・用途等に応じて、各項に盛り込むべき諸要素も記述のスタイルも多様である。
一般向けの言葉の辞典であれば、各語の日常的な使用における意味が記述の基軸になり、その語が哲学的にあるいは思想史上重要な概念であろうが、そのことについて立ち入った記述はされない。例えば、『新明解国語辞典』(第八版)で「主体」を引いてみると、「①自分の意志で行動するととらえられる人(もの) ②組織などを作る上で中心となるもの」と定義されている。ハンディな国語辞典としてはこれで十分だろう。
ところが、これが哲学事典ともなれば、まったく事情が異なる。どれだけの内容を盛り込むかは事典の規模にもよるから一概には言えないが、少なくとも西洋哲学史におけるその原語の歴史の略述と「主観」との意味の違いの説明は必要だろう。日本思想史事典であれば、「主体」がなぜいつどのような思想史的文脈で「主観」に取って代わるようになったかの説明は必須である。
哲学・思想関係の事典で、日本語のある古語を項目として立てる場合、もう一つ気をつけなくてはならないことは、その語の歴史性と概念性を区別する必要があることである。例えば、「さび」を項目として立てる場合、古典の中での用例から帰納的にその意味を規定する歴史的記述と美的理念としてその特異性を説明する美学的記述は明確に区別されなくてはならない。しかも、適用される分野によって意味が異なる場合、そのことも説明しなくてはならない。
私が担当する概念は別のやっかいな問題を抱えている。古語としては、古代から近世末まで、まったく日常語として使用されてきた語なのだが、二十世紀になって日本固有の美的理念の一つに祭り上げられてしまったのである。しかも、それは西洋近代美学に対する批判をその契機としている。だから、古語として取り扱うかぎり、古語辞典の記述をそのまま仏語に訳せば事足りるのだが、その同じ語がなぜ日本の現代美学思想の錦の御旗を飾るようになったのかの説明は、その古語としての記述とはまったく「水と油」のごとくに混ざり合わない。しかも、その語が現代思想のコンテクストの中で「伝統的理念」として「加工」され喧伝されるに至ったカラクリについては、すでに見事な先行研究があり、それに付け加えるべきことは私にはない。
これら「水と油」の二つの記述を並列することも事典としてはありだろう。しかし、それでは哲学的につまらないと私は考えた。別の記述方式はないか、というよりも、言葉への別のアプローチの仕方はないか、この一年折に触れて考え続けてきた。この問いに対する答えは明日の記事で話題にする。