今日はいつもより少し早く4時36分にジョギングに出発した。昨晩から両膝関節の周囲が少しだるく、いつものようには走れなさそうなので、早めに出て、少しゆっくり走り、自宅に帰り着く時間はいつも通りにするためである。昨日とはまた少し違うコースにしたが、やはり自宅からあまり離れないようにした。結果として1時間2分で10キロ走る。
文学作品に現れたある古語の意味を哲学的に考察するために私が採用した方法は、一言でいうと、その語の意味の変遷をその原義から現代的用法まで観念の冒険史の一筋として追跡し、現代哲学においてその言葉が開きうる新しい視座の可能性を示すことである。より詳しく言えば、西洋哲学にない「日本固有なもの」をある言葉の中に無理やり押し込んで悦に入るだけの尊大な文化主義や、西洋哲学のある概念との間にありもしない共通性を捏造して、日本文化の地位を引き上げようとする卑屈な普遍主義を排し、その言葉が日本の思想史・精神史の中でどのような世界了解を可能にし、またそれがどのように変化していったか、あるいはその変化にもかかわらず保存され続けている何らかの不変的要素があるのかどうか観察し記述することである。
しかし、その変化の歴史の追跡結果を単に「客観的に」記述することがこの方法の最終目的なのではない。その変化の歴史の中に、その言葉に内包された精神的エネルギーの放出・発散の契機と、意味論的に近接する他の言葉との接触と相互分節化・差異化を通じてのエネルギー量の増減の契機とを捉え、それらの契機を経て現在なお生きているその言葉の生命の持続を観念の冒険史の一筋として記述し、その記述そのものを通じてその言葉が現在なお保有しているエネルギーを解放して、現代哲学に一つの新しい視角を開き、その冒険史を未来へと開かれたものとして自ら受け継ぐという「主体性」もこの方法には含まれている。
つまり、この方法を自ら採用する者は、自分の考察と思考もまた、たとえそれがどんなにささやかなものであれ、観念の冒険史の中に書き込み、一人の「当事者」として、考える我が身をもって、予見不可能なものを常に孕んだその冒険に関与・参加しなくてはならない。これを私は方法としてメテクシスと呼ぶ。