飛騨神岡町の六郎谷にある、古い砂防堰を訪ねて来た。
この谷は、昔から銅や亜鉛を産出する神岡鉱山の洗鉱後の廃水ですべての木が枯れ、大雨が降るたびに土砂災害で工場や麓の町に甚大な被害をもたらしていた。
旧内務省は大正9年に六郎谷砂防事業に着手し、城郭の石垣と同じ「空積み」の工法で、昭和6年に28基の堰が完成し、その後、この谷で土砂災害が起こることは無かった。
これが飛騨における「近代砂防」のさきがけとなって、その事業は今も各地の谷で営々と続いている。
100年の歳月を経た谷は、緑や清流を取り戻し、死の谷と言われた面影は見当たらなかった。
鬱蒼と夏草が茂り、大きく成長したアカシヤや杉に覆われた谷を遡って行くと、大半の堰は土砂に埋まっていたが、数基の堰が雑草や苔をまとい、辛うじて上部だけが地上に姿を見せていた。
役割を終わった堰は、荒廃した谷を蘇えらせ、山の緑を回復させながら、大地の一部となって自然に帰っていった。
この谷は、昔から銅や亜鉛を産出する神岡鉱山の洗鉱後の廃水ですべての木が枯れ、大雨が降るたびに土砂災害で工場や麓の町に甚大な被害をもたらしていた。
旧内務省は大正9年に六郎谷砂防事業に着手し、城郭の石垣と同じ「空積み」の工法で、昭和6年に28基の堰が完成し、その後、この谷で土砂災害が起こることは無かった。
これが飛騨における「近代砂防」のさきがけとなって、その事業は今も各地の谷で営々と続いている。
100年の歳月を経た谷は、緑や清流を取り戻し、死の谷と言われた面影は見当たらなかった。
鬱蒼と夏草が茂り、大きく成長したアカシヤや杉に覆われた谷を遡って行くと、大半の堰は土砂に埋まっていたが、数基の堰が雑草や苔をまとい、辛うじて上部だけが地上に姿を見せていた。
役割を終わった堰は、荒廃した谷を蘇えらせ、山の緑を回復させながら、大地の一部となって自然に帰っていった。