
↑ダケカンバの森
母が亡くなった時に遺品整理をしたが、文箱に残されていた父からの軍事郵便と、
結婚前の父と母が取り交わした百数十通の書簡などは残していた。
戦争末期の昭和19年に召集令状が来て、訓練を受ける
いとまもなく、父は満洲へ出征した。

終戦間際の20年5月までに、数10通の軍事郵便が
自宅や疎開先に届いた。

検閲が厳しく、何処にいてどんな戦いをしているかや、弱音を吐く
ことは許されず、元気で軍務に励んでいる事だけが記されている。
残された家族への思いすら書けない戦争の残酷さを思い知らされる。

子供たち宛のカタカナ混じりの縦書き文章を、
横に読むとイトオクレなどと読める。
二人にしか分からないサインに強い絆を感じる。

当時4歳だった私宛の2通も残っている。
強い兵隊になって米英をやっつけろと励ましている。

小学3年の姉、小学1年の兄、3歳と生後4ヶ月の妹
2人宛の葉書もある。
気遣いやおもいやりが行間に滲み切ない。

20年5月が最後の便りで、辞世らしい短歌が添えられていたが、
本音の心情すら伝えられないまま8月15日を迎えた。
8月9日に参戦したソ連軍に拘束され、父はシベリアの
捕虜収容所に抑留され、飢えと寒さと重労働で命を落とした。
最後の様子も遺骨や遺品も無く、白木の空箱で
21年2月に故国へ帰った。

父と母は許婚同士で、交際期間にやり取りした手紙や
成績表などを、母の死後に初めて目にした。

当時父は家族と大阪に住み、京都大学に通っていた。
母は名古屋の白川尋常小学校を卒業し、第一高女に在学していた。
休みには、お互いの家に行き来し、京都や奈良観光などを楽しんでいた。
母が出した手紙も一緒に残されていて、青春真っ只中の
楽しげな様子が垣間見れる。
戦火を逃れ疎開先から名古屋へ戻るまでは、幾多の困難が
あったと思うが、最後まで手放せなかったようだ。
疎開先で子供達が寝静まった後に、母が何かを一心に
読んでいる姿を夢うつつに記憶している。
厳しい環境の中で、楽しかった頃を思い出しながら、
生きる支えにしていたようだ。

お盆は嫌な戦争と結びつき、何かと思いに耽ることが多い。