日本文化というと、ともすれば古典文学や伝統芸能といったものを思い浮かべがちですが、現在の文化研究は、映画・コミック・ポップスといった大衆文化をも含み込む方向に向かっています。こういった大衆文化について具体例を取り上げ、その持つ意味について自由に論じてください。(日本文化系90分1200字程度)
【解答例】
現代の大衆文化で世界的に影響を与えている日本文化はアニメであろう。多くの作品に影響を与え、子どもから大人まで幅広い層に受け入れられている。ここでは宮崎駿の代表作である「千と千尋の神隠し」について論じていきたいと思う。なぜなら、外国や日本で幅広い層に受け入れられた作品であるうえに、日本的な世界観や価値観が反映された作品だと考えるからである。
「千と千尋の神隠し」という題名は内容をストレートに表現している。登場人物は「千尋」であるが、父と母が禁忌を犯してしまったために豚に変化してしまい、それを助けるために名前を「千」にされ、異世界と言える空間で多くの神々や妖怪らと暮らす。つまり神隠しである。そして最終的に自我を取り戻すまでを描いた作品である。
この作品には、多くの日本の思想や世界観が表れている。まず、言霊思想である。日本人は自らの国を言霊の国と認識していたが、ここでは名前と自我を関連させている。つまり、「千」と「千尋」は名が違うがゆえに同じ人間ではないのである。むろん、聖書に「最初に言葉ありき」とあるように言語に聖なる要素はあると世界中で認識しているのはわかるが、ここでは日本独自の意味もあるように思う。日本では、一人称が相手や場によって決められることが多い。「わたし」「ぼく」「お兄さん」「先生」など、一人称を使う人は相手にあわせて用いるのだ。ここから日本人は相手によって自我をつくるということがわかる。この作品では相手に「千」と呼ばれることで「千」という人間になってしまうわけであり、自我を他者が決めるということが表れていると言えよう。
次に「カオナシ」の存在からわかる倫理観である。「カオナシ」は時に金、つまり、ゴールドで人の欲望を出させ、相手を食べてしまうことがあった。これは悪と善を明確にわける文化ではあきらかに悪に分類されるものである。しかし、この作品ではカオナシを悪であると単純にはみなさない。確かに日本でも桃太郎のように善悪を単純に描いた作品もあるが、日本神話のスサノオや判官ひいきのように善を絶対視していないことの方が多いと言えよう。むしろ、アメリカの大統領のように善と悪を明確にされるととまどうことが多いのではなかろうか。カオナシは悪と言うよりも千と同じく自我なき、悲しいものとして描かれていると思われる。多神教的なものとして描いていると言ってもよいであろう。
では、外国や現代の日本にとって、「千と千尋と神隠し」のような伝統的な日本の考え方を含んだ作品はどのような意味があるのだろうか。この作品を見た人は、多様な価値観や世界観があるということを認識できるであろう。例えば、アメリカのように絶対的な善を前に出す国には、制御する方向に持っていく考え方になるだろう。また、名前の重要性に気がついた日本人は日本の過去の植民地政策における改名の罪深さを知るだろう。グローバル化という流れの中で、日本文化を利用した「千と千尋の神隠し」は、世界と現代の日本に多様な価値を教える作品となったのである。
【解答例】
現代の大衆文化で世界的に影響を与えている日本文化はアニメであろう。多くの作品に影響を与え、子どもから大人まで幅広い層に受け入れられている。ここでは宮崎駿の代表作である「千と千尋の神隠し」について論じていきたいと思う。なぜなら、外国や日本で幅広い層に受け入れられた作品であるうえに、日本的な世界観や価値観が反映された作品だと考えるからである。
「千と千尋の神隠し」という題名は内容をストレートに表現している。登場人物は「千尋」であるが、父と母が禁忌を犯してしまったために豚に変化してしまい、それを助けるために名前を「千」にされ、異世界と言える空間で多くの神々や妖怪らと暮らす。つまり神隠しである。そして最終的に自我を取り戻すまでを描いた作品である。
この作品には、多くの日本の思想や世界観が表れている。まず、言霊思想である。日本人は自らの国を言霊の国と認識していたが、ここでは名前と自我を関連させている。つまり、「千」と「千尋」は名が違うがゆえに同じ人間ではないのである。むろん、聖書に「最初に言葉ありき」とあるように言語に聖なる要素はあると世界中で認識しているのはわかるが、ここでは日本独自の意味もあるように思う。日本では、一人称が相手や場によって決められることが多い。「わたし」「ぼく」「お兄さん」「先生」など、一人称を使う人は相手にあわせて用いるのだ。ここから日本人は相手によって自我をつくるということがわかる。この作品では相手に「千」と呼ばれることで「千」という人間になってしまうわけであり、自我を他者が決めるということが表れていると言えよう。
次に「カオナシ」の存在からわかる倫理観である。「カオナシ」は時に金、つまり、ゴールドで人の欲望を出させ、相手を食べてしまうことがあった。これは悪と善を明確にわける文化ではあきらかに悪に分類されるものである。しかし、この作品ではカオナシを悪であると単純にはみなさない。確かに日本でも桃太郎のように善悪を単純に描いた作品もあるが、日本神話のスサノオや判官ひいきのように善を絶対視していないことの方が多いと言えよう。むしろ、アメリカの大統領のように善と悪を明確にされるととまどうことが多いのではなかろうか。カオナシは悪と言うよりも千と同じく自我なき、悲しいものとして描かれていると思われる。多神教的なものとして描いていると言ってもよいであろう。
では、外国や現代の日本にとって、「千と千尋と神隠し」のような伝統的な日本の考え方を含んだ作品はどのような意味があるのだろうか。この作品を見た人は、多様な価値観や世界観があるということを認識できるであろう。例えば、アメリカのように絶対的な善を前に出す国には、制御する方向に持っていく考え方になるだろう。また、名前の重要性に気がついた日本人は日本の過去の植民地政策における改名の罪深さを知るだろう。グローバル化という流れの中で、日本文化を利用した「千と千尋の神隠し」は、世界と現代の日本に多様な価値を教える作品となったのである。
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