国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

語りのキャラ

2024-10-19 15:32:55 | その他・雑文

●予備校講師になりたてのときは田村秀行師のものまねであった。

 というのは授業のパターンだけではない。

 キャラとしてである。

 本文を声に出して読むとき、「~ですから」の発音、教科書の持ち方などなどである。

 デブが田村師の真似をしているのは滑稽と言えば滑稽。

 だが、中学生にもあのリズムは心地よかったのではないかと思う。一学期のアンケート結果はよかったのだから。

●板書スタイルは、やや不親切。田村師も不親切だったろうか。

 カメラで見ていた職員さん(代ゼミは講師の授業を監視することがある!)から「大学受験科みたいな板書はやめましょう」と言われたくらいである。

 そうか、不親切かと板書を変えることにする。

●するとどうも、しっくりしない。

 田村師流の教科書の持ち方と量の多い板書がどうも合わない。

 すると語り口も合わなくなる。

 なお、ここでいう田村流は「個人の主観」というやつである。

 あくまでも、私にとっての田村師である。

 ここ大事。

 内なる田村師とでも言おうか。

●そこで語り口が変わっていた。

 英語の原秀行師である。

 師は板書しながらの講義(だったはず)で語りとの相性がよかったのである。

 ただ、「老婆心ながら」というのを講義中にやたらと使っていたら「ローバーシン」って何ですかという質問があったが、中学生対象だというのに、「老婆心」を使っていた。

 「老婆心ながら」は講義で追加的説明をするのに持ってこいだったのである。

●板書しないで説明するときは宮尾慈良師も憑依していた。

 生徒に同意を促す「ねー」とか、文末の「~なんですぅ」などである。

●要は私の中にある「予備校講師像」の集合体として私は講義をしていたのである。

 

●やがて、それらは無意識の底に沈み、私らしい講義となっていたのであろう。

 おそらく、大学受験科にあがったあたりか。

 「あろう」というのは確信が持てないからである。

 「私らしい」ってなんだ? という思いは今もあるからである。

 

 

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