旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ポレチュ~エウフラシウス聖堂のモザイク画

2015-11-01 20:35:58 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海三日目 午後 トリュフの里でゆっくりしすぎて予定より一時間も遅い到着になった。お待たせしましたガイドさん ポレチュはこの海岸線にはよく見られる突き出した半島に出来た古代からの街である 半島の入口に築かれた城壁の城門塔のひとつがこの「五角の塔」ここから旧市街ははじまる。シーズンオフの夕暮れ間近、日曜日で地元の人も少ない ヴェネチア支配時代の邸宅

この町いちばんの見どころ★エウフラシウス聖堂は、路地をまがると突きあたりに見えた

門をくぐると、古代風にアトリウムそして内部へ入ると古代の香りのする空間がひろがった正面に6世紀と伝わる黄金のモザイク画が輝いているアドリア海を挟んでイタリア領ラヴェンナにあるたくさんのモザイクと同時期に製作されたもの。様式も非常に似ているので、同じ作者によるものとさえ思われる。

最初の聖堂はローマ皇帝ヴァレンス時代の四世紀とされる。殉教した最初のポレチュ司教マウルスの墓の上に建設された。正面左手から三人目に描かれた白衣で殉教の冠を持つ人物がそれ⇒聖堂の名前になっているエウフラシウスはその左に立つ。この教会をつくらせた主教である。さらにいちばん左の司教クラウディウスと共に、このモザイクを制作していた時目の前に本人がいた筈だ。他の聖人や天使やキリストと比べて実に生き生きと描写されているのはそのためだろう。少し色を強調させて見ると、さらにその違いがはっきり見えてくる。いちばん右の聖人マウルスののっぺり現実感のない顔に対して、左の二人は顔の色や頭髪の具合まで描き分けられている。

★よく注意してみると、二人の間に小さな子供が描かれているのが見える。これはエウフラシウスの息子で同じく司教に叙せられていたのが表記によってわかる。 このモザイク画全体の中に、もうひとり子供が描かれているのだが、それは、このマリアがいとことのエリザベツを訪問する場面うしろの白いカーテンを上げて「なぁにしてんのかな?この二人」と不思議そうな表情の召使の女の子。とりすました子供司教と対照的な表現になっているのが、モザイク製作者の力量を感じさせる↓

天蓋があってちょっと見づらい。天蓋モザイクは1277年のものだそうだが、柱は六世紀だという。いつからこのようなかたちになったのだろう アドリア海沿岸は時折大地震におそわれてきた。1440年には南の壁が壊れたので、新しくされている。そのため窓のかたちがゴシックになっている この柱の上にあるストゥッコ装飾も片側にはもう存在しない 

床は4世紀のオリジナルか?ヴァレンス帝の顔が刻まれたコインが発見されたことが時代を特定する決めてだったそうだ。

日の暮れかかったアトリウムに出るこの中は洗礼堂になっている⇒洗礼してキリスト教徒になってからでないと聖堂内に入れなかったから外にあるのだ。 振り返るとファサードにもモザイク画があるが中途半端ガイドさんによるとこれは復元で、つくりはじめたもののあまり評判がよくなくて中断したままなのだそうだ。

****

聖堂を出てポレチュの旧市街の道はもう暮れている 12世紀の「二人の聖人の家」⇒ 木製のバルコニーのある「ロマネスクハウス」→ 半島の一番奥にある民家はどれも歴史的な建物になっている

古代に三つあった神殿の廃墟がのこされていた半島の先端

なんとか日暮れまでに見学を終える事ができた

今晩はここから一時間ほど走ったイストラ半島の南端、プーラの街に宿泊する。

 

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イストラ半島、トリュフの里

2015-11-01 15:49:09 | クロアチア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 三日目 午後

イタリア領トリエステを出てイストラ半島の海岸線を南下。スロヴェニア領を少し走り塩田を目にする 

パスポートチェックを受けてクロアチア領に入りそこからはイストラ半島内陸を目指す。モトヴァンの街が丘の頂上に見えてきた さらに田舎道に入る。貯水人造湖の壁が見えてきたら左へ ブドウ畑の中にあるパラディーニ村 目的の農家・レストランはなかなかきれいなところだったすでにテーブルは用意されているが、まずはトリュフの説明から「イストラ半島は三種類の土から出来ていて、トリュフがとれるのはその一つの土からだけ。イストラ半島の中央部 クロトリュフも香り高いが、持ってこられた白トリュフの覆いをとると、まわりがトリュフの香りにそまった価格は質にもよるけれど、この籠いっぱいでなんと百万円ほどになるそうだ。フレッシュなトリュフは十日から二週間ほどしか持たないから、その間に販路にのせなくてはならない。トリュフ農家は見つけるだけが仕事ではやっていけないのである。こちらの家は四十三年前に現在の持ち主の父がはじめたのだそうだ今は五人がトリュフ収穫の資格を持って営業している。しかし地下のトリュフを発見する主役はワンちゃんみんなメスなのだそうだ。愛想のいいのもいれば、じろっと見て無言の子もいます

さぁ、いただきましょう!クリームチーズとトリュフの相性は抜群

このサラミもチーズもトリュフ入りオリーブオイルは新鮮で果実の香りがする 

トリュフ入りはちみつ ワインはここでつくられている白はマルヴァジア、赤はテラン種のもの。ラベルが張られていなくて売るためにつくってるのではないんだそうだ。 メインには、これもトリュフとは相性がよいオムレツを。これだけたっぷりフレッシュトリュフをつかったものははじめていただきます(^^)

ゆうっくり楽しんでから、今日最後の見学地ポレチュへ向かう


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トリエステ~サン・サバ強制収容所跡

2015-11-01 14:23:51 | イタリア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 三日目トリエステ②

第二次大戦時、イタリアで唯一強制収容所がつくられたのが、イタリアの中でもいちばんゲルマン的な街、少数民族がたくさん住んだトリエステだった。

この建物は1898年に建設された米の精製工場。ムッソリーニのイタリアが1943年9月に降伏すると、直後にナチス・ドイツが侵攻。収容所として使い始めた。翌年1944年4月には「焼却所」を設置。ここでは三千人を超える人々が殺されたとされている。

ユダヤ人はここを経由してドイツの収容所に送られた。反体制のスラブ人と政治犯を拷問し抹殺する場所、いわゆる「ガス室」もあったが、アウシュビッツのように三分で効果がでるような「効率的」なモノではなかった。排気ガスを使っていたので死ねるまでに三十分もかかったのだそうだ。

1945年5月1日パルチザンが解放。撤退する際ナチス・ドイツは建物を破壊しようとした。現在コンクリートで再建されている部分は1975年にナショナル・モニュメントに指定された時建築家ロマノ・ボイコによって復元された部分 こちらは入口彼の復元方針は、出来るだけ余計なものを付け加えずに想像させるというものだった。「焼却炉」は、見る者にその痕跡だけを認識させるように考えられ、建物は再建されなかった。 壁の煉瓦に屋根の跡、地面に敷地を感じさせるように工夫されている⇒ 収容・拷問の場所だったとされる場所この狭いスペースに五人も入れられていたこともあった 「服」という人間性・個別性をはぎとり、囚人服を着用させた 彼らが収監されていた場所は、現在床がなくなって木製の柱だけになっている⇒収監されていた人々は自らの痕跡を残そうとその柱や壁にいろいろな「落書き」を残していた。

★今回の訪問で一番印象的だったのは、これら「落書き」を細かく記録していた人物がいたこと。ディエゴ・デ・エンリケスというスペイン系イタリア人。ハプスブルグ海軍に連なる貴族の家系で1909年トリエステにうまれた。この血筋、生まれた場所・時期から考えて、彼が多数の言語を理解したことが想像される。イタリア、スペインなどラテン系、ドイツ・ゲルマン系、クロアチアなどスラブ系、これらすべてを使えたにちがいない。

1945年にこの収容所が解放された時、通訳・交渉役としてかかわった。それは子供の頃から収集していた武器コレクションを充実させるためだったのかもしれないが、戦後廃墟になっていたこの収容所に足を向かわせることになった。

壁や柱に刻まれた収容者の痕跡を、ひとつひとつ丁寧に書き写していったのである。それはノート三百冊にもおよぶ克明なものだった。今日、柱に貼り付けられている紙はそのコピーである

人は、その存在が消滅の危機にさらされるとき、なにかを残そうとあがくものらしい。ディエゴ・デエンリケスはそれを救い上げようとしたのだ。

ディエゴ・デ・エンリケスが記録しなければ、これらは本当にただの「落書き」だった。多くの言語を理解した彼が、そこに残された「声」をひろいあげた事で、今に伝えられることになった事々である。

1950年代になると、この場所は東欧からの難民を収容する施設として使われるようになり、その時に「落書き」の大半は消されてしまったのだから。

彼はしかし1974年に火災で謎の死を遂げた。2014年になってトリエステ市は彼の博物館を開館させた。

***

収容房煉の壁の一角に、エルサレムから贈られた土が収められていた。

 

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トリエステ~サバの住んだ街

2015-11-01 13:40:57 | イタリア

トリエステを初めて訪れた二十年前に読んでいったのが須賀敦子さんのエッセイ「トリエステの坂道」だった。そこに出てくる彼女が泊ったホテルに一週間滞在しても、その当時そこに書かれていた事をそれほど理解していなかった。

彼女がミラノに住み、夫の属する団体を通じて、ユダヤ人やウンベルト・サバに興味を持ち、彼が住んだ港町トリエステを訪れた時の話なのである。

サバという詩人は今でこそイタリア屈指の詩人とされるが、第二次大戦後の晩年までそれほど評価されてはいなかったようだ。評価されない作品を造り続け、出版し続けるというのは辛いことだ。彼が店主をしていた古本屋は今でも古本屋として存在する。トリエステを訪れるならそこは一度訪れておいて損はない。

昨夜からずっとこの地方で「ブラ」と呼ばれる強風が吹いている。そのおかげでからりと晴れあがった11月の空。

19世紀に整備された港に面したエリア ヴェルディの死に際しその名前が冠された劇場内装はミラノのスカラ座を設計したのと同じ人物が手掛けているのだそうだ。ミラノのスカラ座が爆撃されたのにくらべこちらはオリジナルを見ることが出来る、と、ガイドさんがほこらしげに語る。

整然と区画された一角にサバの店はあったこの場所を探しにやってきた須賀敦子さんもこんな風にみていたのだろう。

また、二階に住んだアイルランド人作家ジェームス・ジョイスも同じ視覚を持ったにちがいない。ジョイスはサバと一つ二つしか年齢差がない。サバよりも少し早く名声を確立させたジョイス。二人にどんなかかわりがあったのか。「サバは自分の作品をジョイスに評価してもらって、とても勇気づけられたそうよ」と、現地ガイドさん

すぐ近くで散歩するサバに出会った かれもこんな「ブラ」の吹く日に、身を縮ませて歩いていたのだろう。

町並みの間から、サン・ジュスト聖堂がある丘が見える港へもどるともっと風が強くなった

**

今日はこれからイストラ半島へ向かい、トリュフ農家で昼食をいただく予定(^^)


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トリエステ~サン・ジュスト聖堂

2015-11-01 13:26:24 | イタリア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 三日目① ホテルの窓から白波のたつ湾がみえる朝

午前中はイタリアの北東の端に位置するトリエステの見学。海辺の市街地端にある古代の半円劇場見ながらバスは坂をのぼる。

トリエステの大聖堂は、丘の上の古代ローマ神殿跡をそのまま使って作られている。  鐘楼の四角い建物この中の土産物屋を覗くと古代の柱がそのままどっしりと立っていた 神殿の前門をそのまま利用していたのだ⇒ かつて海から町を見た時にはこの神殿が丘の上にそびえていたのだろう。  土産物屋奥の細い階段をのぼってゆくとみごとに保存されたグリフォンと勝利の神の浮彫があった↓

いちばん上にあがると巨大な鐘がぶらさがっているこれが鳴る時間にはのぼらせてくれない。

眺望する先にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟、メキシコ皇帝となったマクシミリアンの住んだミラマーレ城がある

 

下りてくると、ミサも終わり、中をゆっくり見学できた。ここはとなりあって建っていた9世紀と11世紀の教会を、二つを内包するかたちで三身廊の現在の教会が14世紀に建設されたのだった⇒ファサードのバラ窓はつまり14世紀のもの。左右に古い教会の三角屋根二つの名残があるのが見える↓

床の一部は古代のモザイク側廊のつきあたりに11世紀といわれる聖母子と天使の黄金のモザイク 中世的に厳格な表情かつてのコンスタンチノープルにあるものを思い出させる。 

地元ガイドさん曰く「年に数回しか入れない」という礼拝堂が開いていた。ここに、トリエステの紋章の元になった聖遺物が収められているずらりと並べられた中にトリエステの紋章とそっくりの槍の先があった⇒ ははぁ~これがこれの元でしたか伝説によると、サン・ジュストは四世紀ディオクレティアヌス帝の時代に現在のトルコで殉教した聖人。海に投げ込まれて死んだので聖堂内の彼の像も透明な水の入った容器に入れられているのが、上の堂内写真でもちょっと写っている。

兵士だった彼が持っていた槍が、トリエステまで飛んできて地面に刺さったのだそうで、現代の祭壇画にそのようすが描かれてていた。「どっから飛んできたんだ?」と空を見上げる市民⇒

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堂内で面白い埋葬者を見つけた。

スペインの「カロリスタ」のスタートとなったドン・カルロスのもの。マドリッドのプラド美術館で誰もが見るゴヤ作のカルロス四世の絵。その孫にあたる人物。兄の死後、その娘は王になれないはずだと主張して戦争になった。負けた彼は亡命して、こんなところに埋葬されていたのか。系譜に連なるファミリーは次々にここを墓所にし、子孫は今でもここで式典をやるのだそうだ。

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