トルコ人地区である北ニコシアに、かつてのニコシア大聖堂がある現在、南ニコシアの主要な教会は聖ヨハネ教会となっている。
この教会がある場所は、ルジニャン王朝時代には「聖ヨハネービビ」と呼ばれた古い教会が、ベネディクト派の修道院と共にあったとされる。この変わった名前はアラビア語の「ハビビ」=「愛されし者」という意味からきている。つまり、キリストに愛された福音者ヨハネの為の教会であったということを意味している。
現在見られる教会は、ヴェネチア時代の1662年になって建設されたもの。内部に残るフレスコ画は1730年頃に描かれたと伝わる(撮影禁止)。目立つ鐘楼は19世紀1858年に付設。
この教会の面白いのは、教会そのものではなく、すぐ横が大統領宮殿になっているという事。歴代の南ニコシアを代表する人物は政治的にも宗教的にもこの教会の大司教だったのである。
官邸の前に置かれた白い大理石像は、それほど古い人物ではない。1974年のクーデター発生時に住んでいたマカリオス三世であるキプロスの分断はトルコ軍の侵攻によって始まったのではなく、南キプロスの過激派がギリシャへの併合を求めてこの宮殿を襲ったことがはじまりだった。なんと、この宮殿前に大砲を据えて撃ち込むようなことまでした。
近づいてよく見ると、修復された弾丸の跡が無数にこのされているのが見える。※マカリオス三世の大理石像の後ろに見える建物の修復状況をごらんください
襲われたマカリオス三世はしばらくは行方が分からなかった。クーデター過激派は「マカリオスは死んだ」と声明を発表した。が、実は彼は裏口から逃げ、通りかかったトラックにひろってもらい、西海岸のパフォスまで逃げる事に成功していたのである。
マカリオス三世が「私は生きている」とラジオに登場すると、消沈していた民衆は勇気を得た。
当時ギリシャ本国の軍事政権と軍は、キプロスを手に入れるためクーデター過激派を助けに介入しようとしたが、なんと、アテネの武器庫はからっぽ! あるはずの武器が汚職によって横流しされてしまっていたのである。この失態によって、軍事政権は失脚崩壊してしまう。
キプロスの過激派=ギリシャへの併合派が企てたクーデターもこれで失敗した。
しかし、この事態を受けてトルコ系住民は身の危険を感じ、海峡の向こうのトルコ本国に救いを求め、トルコ軍の侵攻がはじまった。
クーデターの発生は7月15日、トルコ軍の介入は7月20日である。
この事態に駐屯していたイギリス軍はどうしていたのか?
何もしなかったのである。つまり、トルコ軍の侵攻は裏で合意された予定事項であったと推測されているのだ。
「キプロスがギリシャ系とトルコ系が対立している島というのは、イギリスやアメリカが自分たちの都合の良いように利用して、そうなってしまっているんだ」と、今回同行してくれたキプロス人は言った。
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建物前に置いてあった大統領の専用車、「大司教」を意味するアルファベット略号AKだけが入っている
****午後、今回の視察を企画したロンドン在住のキプロス人スタッフが、ご自分の両親の家に招待してくださった。昼間からぶどうの搾りかすをつかった蒸留酒ズィヴァニアをふるまっていただいた25から40度もあるが、地元の方々は、くいっくい飲んでしまいます。
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ニコシアの考古学博物館へ
この建物はもともとヴィクトリア女王記念館として建てられた
ふるびた建物だが、キプロスの豊かな古代史を感じさせる発掘物がたくさん収蔵されている。
初日に空港のビルに入った途端に見た絵のヴィーナスの石像もここにある⇒
★南キプロスの1ユーロコインに使われているソープ・ストーンとよばれる玉石でつくられた神像も
上右、コインに書かれた言葉が二つ。
左側にはキリシャアルファベットだが「キプロス」と読める。もうひとつ右側KIBRISとは?
これは、トルコ語でキプロスを意味する言葉。
ギリシャ、トルコ、両民族共にキプロス国民であることを、ユーロコインでも表してるのだ。
圧倒的な土偶が並んだ一角に足を止めさせられる 中国の兵馬俑を思い出させる巨大な兵士もいる
解説によると、現在北キプロスに属するアギャ・イリニ海岸で見つかった紀元前11世紀からに遡る神域からの出土品。
二千体も発見されたが、女性像はたった二体だけ。戦いの神だったのかもしれないと推察されている。
半分はスェーデンの博物館にあるとのこと。1929年に発掘したのがスェーデン隊であったゆえ。
・・・1924年にエジプトで発見されたツタンカーメン王墓からのものは、国外への持ち出しは許されなかったのに…ここでは当時の主権者だったイギリスが許可した、ということになろう。
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セプティミス・セヴェルスのブロンズ像首のところに付け替えられた跡がみられる。当時はよくある方法だった。身体と顔のバランスがどうしてもわるくなるのはそのせいか。
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夕食はリドラ通りにある、北への検問所すぐ近くのれすとらん。カジュアルだがアメリカのクリントン大統領も訪れたというお店にて。名産ハルミチーズのフライ⇒
ひっそりと平和な、夜の北ニコシアへの検問所である
キプロス視察三日目 南ニコシアをめぐる一日。 城壁外のホテルから、いよいよニコシアの星型をした城壁のそばを通る。このあたりは、「マルティネンゴ城壁」と呼ばれるのだそうだ。マルティネンゴとはロードス島の城壁を補強した築城技師の名前と同じ。しかし、ロードス島が陥落したのは1523年1月1日だから、この城壁を同じ人物が補修したと考えるには年月が離れすぎている。たぶん、その息子か孫が手掛けたと考えるのが妥当だろう。
朝一番で伺った、旧市街の繁華街すぐの場所にあるホテルで出された焼きたてのペイストリーがいたくおいしかった。
とくにオリーブ入りのは絶品さらに、蜂蜜を挟んで焼いたこれ中の蜂蜜が焼けて濃縮されている。 朝ごはんを美味しく食べて町歩き、いいですね。 クッキング体験もさせてもらえるとか。2016年の《手造の旅》での滞在を考えてみましょう(^^)。
元市長の家が★レヴェンティス博物館となっている。きれいでわかりやすい展示。入ってすぐのところにニコシアの模型とこんな地図この形の都市、もうひとつ同じものがある⇒こちらに書きました。
ヴェネチアからルジニャン家に輿入れしてキプロス王国をヴェネチアに併合させる役割をしたカテリーナ・コルナロの肖像⇒これはフィレンツェにあるティッツィアーノが1542年に描いたものの複製だが、よくできている。※カタリーナ・コルナロは1510年に五十五歳で亡くなっているので、ティッツィアーノも誰かの描いた絵をモデルにしたのだろう。実際にカタリーナが生存中に本人を目の前にして描かれたものは、1500年四十五歳ごろのカタリーナをジェンティーレ・ベッリーニが描いたもの⇒ブダペストにあるものをこちらからごらんいただけます。
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ニコシアの銀座通りにあたるリドラ通りを歩くと、通りは北ニコシアへの検問所に突き当たる。
ここには2007年3月にオープンした。それまでは「ニコシアの壁」と呼ばれる高さ五メートルのコンクリート壁が分断して北側は見通せなかった場所。 今はこの写真のように、北側がずっと見通せるし、観光客だけでなく、市民も身分証明書を見せるだけで南北を行き来している。 かつてのベルリンの壁や現代の南北朝鮮を隔てる板門店を想像してゆくと拍子抜けする気楽な光景。 北のトルコ系と南のギリシャ系がこれだけ融合してきているとは、予期しなかった平和な進展。 世界が宗教や民族で分断されていく傾向が強い中、喜ばしく、注目すべき場所だと思う。
今回、北ニコシア側には行かない日程で、ちょっと残念。 リドラ通り沿い手前にあった百貨店上層階展望台から北側が見晴らせる展望台になっているときいて、登ってみることにした。次のの写真で、リドラ通りを覆う三角のテントの間から高く見下ろすのっぽのビルの一番上が有料展望台である⇒
そして、眺めは抜群↴
向こうの山肌に見えているのは、トルコ国旗とその赤白を入れ替えた北キプロスの旗。 モスクのミナレットがたくさんあるのがトルコ側らしい。右の方に見えているひときわ大きな二本のミナレットは、かつての聖ソフィア大聖堂がモスクに改造されて敷設されたものである。キプロス王としての戴冠はあの大聖堂で行われていたのだから、パリでいえばノートルダムにあたる場所だ。 その他にもトルコが帝国内に機能的に配置したキャラバンサライの跡⇔(※これは展望台に設置してあった説明機械より)など、なかなか興味深い場所があることが分かる。 南のガイドは北ではガイドできないので、個人で南を訪れた日本人は、北をガイド付きでまわるのがなかなかむずかしようだが、2016《手造の旅》では北ニコシアの徒歩観光を是非組み込むことにしよう。