旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

コロニア・グエル礼拝堂

2016-03-21 11:45:04 | スペイン
ガウディらしさがもっとも爆発した空間だと、個人的におもっている。


パトロンだったグエル氏が彼の工場の労働者の村を計画し、1890年にはガウディに発注されていたその村の教会。
礼拝堂の地下部分が完成している↑ガウディはデザインと下準備に長い時間をかけ、実際に建設がはじまったのは1908年。

当初建てる予定だった塔などはひとつも姿をあらわしていない。

完成予定のシルエット図がこれ↑上の写真と見比べていただくと、その雰囲気が伝わりやすいだろう。
入口ヴォールトの装飾

そして、他のガウディ作品ではあまり見た事がない迫力の自然石の柱↓


上の写真左側に写っている、こちらもど迫力の自然石を組み合わせた入口は、まるでギリシャの神殿のようである。あとでふたたび登場するので記憶しておいていただきたい。


内部を支える柱も迫力の自然石の角柱


泉水盤は自然の巨大な貝

ステンドグラスの窓が色彩豊かな蝶のよう

この窓は手動でぱたぱた開け閉めできる

ガウディが展開する空間に、唯一守り神の様に立つ聖母マリヤ像

これは、晩年のガウディが毎日通っていた、バルセロナ旧市街にある聖フィリッポ・ネリ教会から寄贈されたものなのだそうだ。


聖家族教会からのけっして近くはない道のりを、ガウディは毎日歩いて通っていた。この聖母に祈っていたのか。1926年6月7日、市電にひかれたのはこの教会へ行く途中だった。教会の司祭がガウディが来ないのをいぶかったのが、身元不明だったガウディがみつかるきっかけになったのだそうだ。


祭壇の後ろにもあがることができる

この「地下」聖堂は、1914年に工事が中断した時には、いま見るよりももっと未完成だっただろうことが、コンクリート補修された部分から感じられる。まだまだ未完成。それでも、ガウディ作品の中でも「最高傑作」と呼ぶひとがあるほど、他にみることのできない空間である。


***横をまわって

未完の上階へむかう

窓ガラスの保護につかわれている鉄の細工をよく見てみると・・・


これは、なんと、繊維工場でつかわれている針である。
ガウディらしいアイデアと、そこに祈りにやってくる人々への気の効いた配慮である。


本堂になるはずだった、現在屋上の様に見える場所はこんなふうになっている。

黒い丸い表示は地下の柱の位置を示している。


鳥居の様にたてられた入口の石が古代ギリシャ遺跡の様な迫力を感じさせる。ひと目見て、ギリシャのミケーネ遺跡入口のまぐさ石を思い出した。 これは前出の写真に見られる、下の階の礼拝堂入口に使われているのと同じスタイルである。ガウディがどのような手順で空間を形成していったのかを、少し伺う事ができる。


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コロニア・グエル

2016-03-21 02:30:22 | スペイン

バルセロナ終日の自由日。希望者六名でミニバスを借り、通常の観光ではなかなか訪れないガウディ作品を見に行く事にした。

市内中心部のホテルから三十分も走らずに、ちょっとした田舎風情のあるサンタ・コロマ・デ・セルヴェジョ村に到着。小さな車なのでバス駐車場ではなく、村の広場近くに降りられる。

月曜の午前中、ひっそりと静かだが人々の生活が感じられる村。どこにでもありそうだが、建物は百年前にグエル氏の注文によりガウディの弟子たちが手掛けたものがたくさん残されている。

上の写真左の建物は1892年にジョアン・ルビオの設計した「オルダル邸」。監督官か少し地位のある人の家だったようだ。別の角度から見ると⇒ 特に名前が付されていなくても、なかなか面白く・美しくつくられている  惜しいのはところどころでまったく別のテイストの家が割り込んでいて、もとはあっただろう統一感が崩されてしまっている事。

これらの住宅に住む労働者が働いていた工場は、かつてこんな様子だった。模型がインフォメーション記念館⇒の中に再現されていた⇒※ガウディの礼拝堂への入場券をここで購入する。

工場ではキューバから輸入した綿花をつかって⇒ コーデュロイなどをつくる繊維工場だった⇒ グエル家は父の代からキューバで農場経営をしていたのである。

最初、工場はバルセロナ市内にあったが、息子のエウセビ・グエル氏は環境が整った工場を郊外に建設する事にした。そして、自分の工場で働く労働者たち百五十世帯を住まわせる「コロニア」(=いわば入植地・居住地)としてこの村をいっきに作らせたのである。

しかし、それは百年も前の事。1936-39年のスペイン市民戦争の時には工場ごと一時接収され、戦後1945年にはグエル家の手も離れて売りに出されている。工場自体も1973年には閉鎖されてしまった。この状態では「統一感のある村」を維持することは無理な注文だったと想像できる。

それでも、村の中心広場に向かうと⇒1890年に建てられたグエル氏への表敬胸像が今も大切にされていた。↓

エウセビ・グエルという人はガウディという才能にチャンスを与えた事によって現代でも名前を残しているが、それだけの金持ちではない。

こういう労働者のための村を用意する度量の広い経営者だったのがわかる。労働者の子供たちのためにも十分な教育を施そうと、英語教師はわざわざ英国から招いてたのだそうだ。この街路樹の先にその学校も残されている⇒ 現代の労働力の搾取ばっかり考えているブラックなんとかとは、だいぶんちがう。

百五十戸の人々が住む村になれば、当然教会が必要になる。それまでグエル家が私的に使っていた小さな礼拝堂は回数を分けてミサを行うほど混雑するようになり、いよいよ、1908年に教会の建設がはじまった。

これらストーリーを知ってからガウディ作の未完の教会を訪れる事にしよう。

ゆるい坂をのぼってゆくと、すぐに目の前に「ひと目でガウディ」という礼拝堂下の階がみえてきた↓

扉を開けると、ひとによっては「ガウディ最高傑作」と称賛する空間がひろがった。

・・・次の日記に続く

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