旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

世界遺産マテラのサッシに泊まる

2016-04-02 22:23:51 | イタリア

午後四時を過ぎてからマテラに到着した。バロック時代の町並から展望台に出ると、いきなりこの風景がひろがって、誰もがあっけにとられる↓

サッシと呼ばれる洞窟の前に家を構築していった場所。今晩はこのサッシを利用したホテルに宿泊!

イル・ククーと呼ばれる鳥笛⇒ セモリナ粉を使って焼いた日持ちのするマテラ・パン⇒旅をするときにこういうのを持っていったんだそうな。

使われている石は太古の海底から持ち上がったもの。貝殻がそのままはまっていたりする⇒けっこう脆そうに見える。 このマークは2019年「ヨーロッパ文化都市」に選出されたのでそのシンボルとしてつくられた⇒

★大聖堂が長年の修復を終えたところだった。ずうっと足場がある姿しか見たことがなかったので感激。つい三週間ほど前に再オープンしたんだそうだ↓

ゴシック窓はついているが、プーリアロマネスクのひとつとして認識できる形状。北イタリアからのロンゴバルド族の様式とシチリアにあるビザンチン+ノルマンの様式が交じり合っているのがプーリア・ロマネスクだと認識。

内部には、より古い時代の教会の跡や、バロック式祭壇の後ろに塗りこめられていた創建当時の「地獄絵」なども見られて、実に興味深い。古代の神殿からの再利用と思しき柱や、ロンゴバルド的装飾の柱頭飾りもある。内部見学には日本語のイヤフォンも導入される予定だそうだ。今回短時間で英語のものをささっと拝聴しただけだったので、次回が楽しみ(時間が十分ある旅をつくって訪れたい)。

**さて、サッシをゆっくり歩いて降りてゆく。この道は1920年代にムッソリーニが無理に通したもの⇒ サッシの中を車で入ってこられる唯一の道である。ムッソリーニはローマにも遺跡を分断するフォーリ・インペリアーリ通りをつくったりした。ローマをはじめイタリアの誇るべき歴史を目に見える形にしようとした、ということなのだろう。良し悪しは一概に言えないと思う。 1950年代に不衛生ということで住民を強制退去させて、前面廃墟になっていたサッシ。今ではインフラも完備されて人気の観光箇所としてここに住む人も増えてはいる。 まだまだこういう場所も多いけれど⇒ 

この町並みがパレスティナに似ているというので、キリスト受難劇の映画「パッション」も撮影された。今も同様に「ワンダー・ウーマン」なる映画が撮られているといことで、その張りぼて岩がこれ⇒

★今晩われわれが泊まるホテルのレセプションは、数年前よりもぐっときれいになっていた⇒ 天蓋?蚊帳?があるのは飾りではない。きれいにしてはあるが、時々ぽろっと砂が落ちてくることもある。 しかし、浴室はしっかりしていて、普通のホテルと変わらないこんな部屋も⇒

ホテルすぐ前から見える岩が盛り上がったような場所は、ビザンチン時代にさかのぼるイドリス教会。下に見える教会は15世紀ごろのサン・ピエトロ教会↓

午後七時すぎ、夕食へ向かう。こういう風景が見られるのが、ここに宿泊する楽しみ↓

明日は早起きして谷底に見えた吊橋まで降りてみようか。

 

 

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世界遺産 パエストゥム遺跡

2016-04-02 14:23:43 | イタリア

前日サレルノへ宿泊したのは、パエストゥムまで近いから。朝、いかにもローマの街道だった雰囲気を感じさせる道を四十分ほど走ると、巨大なギリシャ神殿が見えてきた。 ガイドさんとお会いするまで時間があるのでカフェにはいって絞ったオレンジジュースを注文あれ?きのうポジターノの展望台で飲んだもののの方がずっとおいしい。当然ながら場所によってちがうんですね。

今日は休日で、イタリア人がたくさん訪れていた。博物館では考古学のシンポジウムも進行中のようす。遺跡だけではもったいない、あとから入りましょう⇒ 

★パエストゥムは古代ギリシャにはポセイドニア(海神ポセイドンの街)と呼ばれていたが、ルカニア人に征服されて彼らの言葉でパエストゥムと呼ばれるようになった。その後にここを支配したローマ人も同じような発音をした。つまり、古代遺跡パエストゥムは以下の三つの時代のものが重複して同じ場所に見えているのだと認識する必要がある。

①紀元前6世紀~4世紀前半⇒ギリシャ人

②紀元前4世紀後半~紀元前3世紀BC280ごろまで⇒ルカニア人

③紀元前3世紀BC280ごろ以降⇒ローマ人

古代の道⇒ 円形劇場これらは③のローマ人の残したもの

①ギリシャ人の残した巨大な神殿が三つも立ちつづけている。 これらは古代「マグナ・グレキア」=大ギリシャ圏の遺跡の中でも屈指の保存状態を誇る。

下は三つのうち最も保存状態の良い、通称「ネプチューン(ポセイドン)神殿」。

しかし、実際にはヘラ神(ゼウスの正妻)の神殿だっただろうと推察されている。それは、多産を象徴するザクロを持ったヘラ神の小像が多数見つかったから⇒

こういったものは英語ではBOTIFU=ボーティフと呼ばれる。多くは実際の神殿にあった巨大な神像のミニチュアであったと想像される。お参りにやってきた人々が祈りを込めて購入し、その後に願いがかなうとお礼参りをして奉納したり、今のキリスト教の教会のスタイルと似ている。

最初、到着した時に見えた「ケレス(豊穣の女神)神殿」では、外側の列柱しか残っていなかったが、こちらは内側の壁をささえていた柱も残っている⇒

博物館では通称「ケレス神殿」から見つかった、アテネ女神の姿が展示されている。つまり、本当はアテネ神にささげた神殿だったと推察されれるのだ↓

戦の神でもあるので、盾を持っている。

外側のドーリア式と違い、内側神殿本体はイオニア式の柱を用いていた。その一部がこれ⇒テラコッタ製の破風飾りも復元されている。

これらの神殿は紀元前六世紀ごろの建造と推察される。そのころの青銅製壷の装飾。その精度が見事⇒

②ルカニア人の墓から見つかった多くの品々が博物館に展示されている。もっとも有名なのが「ダイバーの墓」として知られるこれ↓

ナポリの考古学博物館に展示されている本物に加え、ここパエストゥムでは、横壁のフレスコ画も見ることができた⇒ 「飛び込む」という行為は、この世からあの世への移動を意味していると推察される。ほかにも同様の主題が数多く見つかっているからだ⇒ ルカニア人の墳墓からのフレスコ画コレクションは実に多彩。下の絵は死に対して苦悩する埋葬者本人の女性だと解釈されている⇒ 戦士の墓から見つかったヘルメット⇒洋の東西・時代の古い新しいを問わず、兜に飾りをつけたがるのは男の常なのかもしれない。

****古代にこの街を繁栄させた三つの民族が滅んだ後、紀元後10世紀ごろにはイスラム海賊と疫病によって、人々は海辺の町を放棄した。博物館から見える山の中腹にカパッチョという街は、パエストゥムから移住した人々がつくったとされている⇒

*****昼食へ行く途中、古代パエストゥムの街を囲っていた5キロメートルに及ぶ城壁が延々と見えた⇒

遺跡に隣接するレストランすぐ裏の遺跡からなら歩いて入れたんだ⇒ 

小松はモツァレラチーズのクレープをいただきました⇒

午後は三時間半ほど走ってマテラの街を目指す。

 

 

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