「その樫の木は、後に街の公式『首吊りの木』とされた。」
コルターヴィルの街を離れる車の中で、街で入手した解説を読んでいてぎょっとした。
ついさっき、照りつける太陽を避けて入っていた木陰に、かつては人が吊るされていたのだ↓
カリフォルニア州の片田舎コルータヴィルなど、前日まで知りもしなかった。ヨセミテからサクラメントへ行く途中で、どこかちょっとおもしろそうな街がないかと、地図とにらめっこしていて目に留まったのである。
1848年、最初に金が見つかったのは、この街から北へ十五分ほど行ったサッターの街だった。そして、フォーティーナイナーズと呼ばれる一攫千金を夢見る輩がやってきた。
ジョージ・コルターは1850年にはじめての交易所(トレーディング・ポスト)とホテルを開いた。それが、まさに、この木の後ろに見える「廃墟」だった。そう、「廃墟」だと思ったのだが・・・
ミュージアムという表示を見て、中へ入ってみる。
きれいに整理された中庭の階段を上ると扉があって、おそるおそるドアノブをまわしてみると。
「ようこそ」と明るい声がして、彼女が迎えてくれた。
昔ホテルだったのこの建物、いまは街の歴史が詰まった博物館になっていたのだ。
「どちらから?」と訊ね、うしろの世界地図で出身国にピンを刺してくれるように言った。見ると、日本は東京にひとつピンがあるだけ。広島から来られた方が慎重に場所を見極めてピンを刺した。
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博物館はコルターヴィルがどんな街なのかを簡潔に理解させてくれる。最初に身一つでやってきた男たちは金属のパン(お皿)で川をさらった。
地表から金がとれなくなると、掘り始めた
やがて資本家がやってきて、鉱脈に沿って大規模な鉱山を動かすようになる。線路をが引かれ、掘り出した石を処理場まで運び始めた。さっき「首吊りの木」の下に置かれていた機関車は、1897年から1904年まで走っていた木炭車「ホイッスル・ビリー」だった。下の写真の線路を走っていたのか↓
上の写真でめずらしいのは、中国人工夫が写っている事。この時代、大陸横断鉄道の建設に駆り出されたたくさんの中国人「苦力(クーリー)」が居た筈なのに、残された多くの記念写真に彼らは写っていない。写っているほとんどは白人。ここ、コルターズビルには今も「チャイナタウン」(というほど大きなものではないようだが)があると言われたが、それだけ中国人の存在感が大きい街だったのだだろう。
人が集まると、交易所やホテルが出来る。ここには十五のホテルがあったのだ。そのはじめのひとつが、今もあの「首吊りの木」の斜め前に営業している↓
「ホテル・ジェフリー」ははじめ、下の写真の様な簡素な掘っ立て小屋みたいな建物だった↓
上階を建て増す時に壁を厚くして↓
その壁はは、今のホテルでもそのまま使われているのだそうだ。
*この唐突な交差点だけが中心のコルターズビルの街に、かつて一万人もの人々が暮らしていたのか・・・。今見えているのはゴールドラッシュの残滓だった。
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街には「骨董屋」がいくつもあり、そこには中国系の品物が目立った。歴史を知ってみれば、納得⇒
さきほどの博物館の裏手には、放棄されてそのままになっているような採掘のあとが残されていた。
コルターヴィルのような街は、ゴールドラッシュの当時たくさんあったのだろう。しかし、それは、見ようと思って見ないと、観光客の目にはなかなか入ってこない。ただ「さびれた街だな」でおわってしまう。縁あって、知ったコルターヴィル。もう一度来ることがあるだろうか。
今日の宿泊は、ゴールドラッシュの結果、カリフォルニアの州都となったサクラメントであります。