旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》山形~羽黒山から志津温泉「つたや」へ

2016-06-24 21:25:39 | 国内

東京駅発07:12の山形新幹線「つばさ」は、10:06に山形駅に到着。すぐに出羽三山のある庄内地方へ向かった。最上川の上流にあたる地域に月山湖ダム・月山ダムなどをすぎてゆく 庄内地方の名産といえば柿。この巨大な柿は百万円だそうだ↓ 羽黒山の巨大な鳥居がみえてくる ここは出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の三神をあわせて祀る三神合祭殿がある。雪深い冬にはここまで来るだけで御利益を得られるということ? 江戸時代までは神仏を合わせて祀っていたが、明治期の廃仏毀釈で仏教寺院はそのほとんどが改宗または壊滅させられ、仏教建築も壊されてしまった。なので境内に残る仏教の鐘楼が異彩を放っている。 鐘楼は1617年江戸時代に造られたものだが、ここに釣り下げられた梵鐘の由来は一回目の元寇・文永の役1274年に遡る。付加されていた解説文に少し書き足す→「鎌倉幕府から依頼されて戦勝を祈祷をしたところ、近くの鏡池から九頭竜王の影が出て酒田湊方向へ飛び去った。すると、蒙古の船は海中に没した。これにより鐘を寄付された。」鐘には建治元年(1275年)八月二七日の銘があるそうだ。 すぐ近くに、その九頭竜王が出でたという「鏡池」。周囲百メートルほど。池の向こうに社殿。  この池に大正時代にかけられた橋を撤去する際に、数百枚の銅鏡が発見された。 「昔は13歳になると山伏の様に修験道をさせる習慣があって、無事にそれが成就すると御礼で母が池に鏡を奉納する習慣があったんだそうです。」と、ガイドさん。 鏡は平安から江戸までと幅広い時代にわたっているそうだ。 ううむ、どんな鏡か見てみたい。近くの「出羽三山歴史博物館」になら所蔵しているのではないか、と足を向けた→お昼ご飯においしい月山筍のそばを食べちゃったので、入館するまでの時間はないが… 「ここに銅鏡は展示されているのでしょうか?」と訊ねると、入館もしない輩に親切にいろいろお答えくださった。「ずらっと四十枚ほどならんでますよ」とのこと。よし、次回(いつ?)は、じっくり見てやろう。解説リーフレットだけいただきました↓ ふと見ると、巨大な破風の部分が建物の横に立てかけてある。改修で取り外されたものらしい。こういうのこそ見て面白いものなのだけれど… **出羽三山の開祖は第三十二代崇峻天皇の第三皇子だった蜂子(はちこ)皇子と言われる。大化の改新前の話。崇峻天皇は仏教推進派の蘇我馬子(叔父であり義理の父)に暗殺されてしまい、逃れてこの地にやってきた。 京都北部の由良川を経由、日本海から上陸したところには、今も同じ名前の地名が残っている。 ここで三本足のカラス(八咫烏)に出会い、導かれ、洞窟を抜けて出たところが羽黒山だったというのだ。境内にある碑がそれをあらわしている→ 蜂子皇子の墓とされている場所→ここは宮内庁の管轄で、最近まで守衛さんも置かれていたそうな。これが今は誰も使わない小屋→

**小さな社の彫刻がすばらしかった 

もともとの参道だった2446段の石段への鳥居。  降りるといっても楽じゃありません。

 ※こちらにもう少し書きました

****

午前中よりも月山の山容がよくみえた↓

志津温泉はしずかな山里。ロビーを入ると現代的な落ち着いた空間↓

夕飯には、名物の「月山筍」がいろんなかたちで登場。堪能しました↓

さあぁ、明日は、湯殿山神社の朝詣り。05:20出発であります。

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《手造の旅》山形~羽黒山の石段を

2016-06-24 14:12:58 | 国内

「あらかじめ決められた事だけじゃなくて、面白いアイデアがあればなんでも言ってくださいね」

 

山形駅に到着後、バスガイドさんにお会いしてすぐにそう言った。すると、経験豊かなガイドさんが「羽黒山の五重塔、お聞きしている予定では駐車場から往復になってますけど、上から降りてくるのはどうでしょう。下りならだいじょうぶじゃないですか?無理な方は車で行っていただくことにして」とおっしゃる。

 

羽黒山の国宝・五重塔のある石段が急で長いのはあらかじめ知っていた。 なので、ここは五重塔だけ見て、上の本宮まではバスで行く事にしていたが、そうか、上から降りてくる手があったか。 

 

しかし、全部で何段あるのでしょう?

 

「二千四百四十六段です」とさらっとお答えだったので、皆さんついつい?歩くことにしたのだった。「バスで行く方は、運転手さんが五重塔まではお連れしますよ」とガイドさんが何度もアナウンスするが、みんさんすでに降りる気満々。

 

実際に降りはじめると、杉木立の中に延々と続く石の階段はそれを踏みしめてこそ味わい深い。「歩くことを選択してよかった」と、誰もが思った。

 

※下の写真は登ってゆく人を振り返って見上げた図↓

 

 

石段は江戸時代はじめに整備され、およそ三百五十年をもつ。杉木立も同様だ。一朝一夕でこの雰囲気にはならない。さすがフランスのガイドブック「グリーン・ミシュラン」の三つ星。

 

 

梅雨の真っ只中だが、幸い雨ではない。紫陽花のおだやかな水色が目に優しい 「石段のところどころに、とっくり、杯、ひょうたんが刻まれていて、これを三十三見つけると願いがかなうと言われているんです」とガイドさん。分かりやすい場所にあるものは、すぐに見つかった↓

 

 

しかし・・・二千四百段以上というのは、さらっと言われてさらっと歩ききるには、けっこうな距離だったと、あとから足が理解し始める。距離は1.7㎞。ほぼずうっと石段。あの「山寺」の石段の倍あるというのは、あとから知らされた。

 

「あ~休憩~!」

 

しんがりを務める小松も一緒にきゅうけい~(^^)。この石段を歩く人はそう多くはないから、立ち止まれば周囲は静謐な空気が流れる。足元ばかり見ているのはもったいない。振り仰げば、時間そのもののようにまっすぐ延びる杉の巨木たちが見下ろしている。

 

この石段「下り」は、「疲れたから止めて途中で引き返す」というのできない。だって、引き返すというのは、またこの急な石段をまた登ることを意味するのだから。

 

茶店を横に見ながら二の坂・一の坂と過ぎると、こんな看板が目についた↓

 

 

なんと!この場所には大きなお寺があったとうのだ。今はうっそうとした木々に埋もれる一角に赤い小さな鳥居があとから建てられているだけ。明治の廃仏毀釈で取り壊された寺は、こういう名刹であればそれだけ多かった筈である。そこで、どんなドラマがあったのか、我々はなかなか知る事ができないのだが。

 

突然、五重の塔の前に出る。高さ二十九メートルは、杉木立の中にあってもじゅうぶんに高い。

 

 

平将門創建という伝説だが、資料が確認できるのは南北朝時代・十四世紀からだそうだ。今は林の中にぽつんと建っているが、この塔もかつては寺院建築群のひとつだった。これひとつだけが壊されずに残されたのは、その美しさゆえだったのだろうか。今は大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っている。

 

このすぐ近くに、樹齢千年という「爺杉(じじすぎ)」があった

 

 

こちらも礼拝の対象になっている。人間の時間尺を超越した巨木を前にすると、人間の作りだした宗教はあまり意味をもたなくなってしまうようだ。※先日行ったセコイア国立公園(アメリカ)の写真⇒ご覧ください。

 

ここを過ぎれば、須賀の滝とそこから流れる祓川がすぐ。その名前のとおり、昔の参拝はここで清めてから石段をのぼりはじめたのだった。

 

「いでは文化センター」で、バスに戻り、今晩の宿・志津温泉「つたや」に向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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