旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サダト暗殺の場所を通ってから帰国の途へ

2019-01-25 20:20:08 | エジプト

ピラミッド型のモニュメントが遠くに見えてきた時、ガイドさんが言った。
「あそこがサダト大統領の墓です」「暗殺された場所のすぐ前につくられました」

1981年、自分が閲兵していた装甲車から駆け寄ってきた兵士に撃たれた。
今バスが走っているこの通りを、その装甲車は走っていたのだ。
サダト大統領が座っていた観覧席が見えた↓

いつも着けていた防弾チョッキをその日はつけていなかった。
妻が着用をうながすと「自分の息子たちに会いに行くのに必要ない」と言ったのだそうだ。
全身三十二か所を撃たれていた。
隣には次期大統領となるムバラクが座っていたけれどかすり傷だった。

暗殺された場所は空港から近いことは知っていたが、ちゃんと認識して通ったのははじめてだった。
**

アスワンからカイロに着いて、巨大なショッピングモールに立ち寄った↓

ただ自由にしても買いたいものなどみつからない。スーパーマーケットに連れて行ってもらった

エジプトらしくて、日本人にもよろこばれる手軽なお土産ってなに?↓ガイドさんがお勧めくださった「へちま」のたわしと…

↑小さな円筒形の入れ物はタヒーナというゴマのペースト。
これは日本の食卓でも使いやすいと思う。濃い味が多いエジプトで、このタヒーナはマイルド(^.^)
↓こんなふうに豚肉とあえて

パンにぬってちょっと砂糖をふりかけてもよし

日本で売っているゴマペーストと比べてみても、エジプトで売られていたもののほうが美味しいと感じた。
※液体なのでスーツケースに入れて持って帰りましょう(^.^)

↓今回ガイドさんが「エジプト人これ大好きです」とのことで購入したこれは

クロワッサンの中にチョコやクリームが入った菓子パン
↑左上はエンゼルパイみたいな「BIMBO」
左下はオレオに似た「BORIO」
共に悪くない味でした(^.^)

***
今回のエジプトの旅、最後の宿泊はリッツカールトンにて

↑立派な生花がふんだんに飾られている
イタリアンレストランで夕食

↓部屋のスリッパには古代エジプトの生命のカギ=アンクがデザインされております

*****
帰国便ルフトハンザ航空は午前の出発。
でも、あまり早すぎないフライトを選んだ。
起きたら部屋の窓からカイロタワーが見えた↓


短い時間だがここの朝食は食べておくべきと判断。
多彩で繊細なサラダ

↓チーズ類も豊富なセレクション

↓日本食的な味わいもある

↓パンコーナー

↓オムレツコーナースタンバイ中

↓乳製品


空港へ向かうバス↓今回カイロで用意してくださったバスはとても快適だった

↓日本語ガイドさんだけでなく、早朝から夜遅くまでホテルや空港でアシストしてくれるスタッフにも心より感謝いたします

復路乗継のフランクフルトにて↓シュタイフのお店
↓こんなかわいいぬいぐるみはエジプトでは見なかった↓ついつい買っちゃう

シュタイフがエジプトのラクダをぬいぐるみにして、カイロ空港で独占販売とか(笑)しないでしょうね



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トシュカ横目に砂漠の道をアスワンへ。中州のホテルで昼食の後空港へ。

2019-01-25 12:12:00 | エジプト
メッカ巡礼にも使われるのだろうバスがやってきた↓

アブシンベルンのホテルからアスワンまで砂漠の道を直行してしまえば三時間ほど。
↓途中に見える放棄された村々は、アスワンハイダム建設の時に村民ごとアスワンに移住してしまったケースが多いのだそうだ。
トシュカに移住したんじゃなかったのか

↓検問所はいくつも置かれている


砂漠の中に新しい街トシュカが見えてきた↓

計画は二十年以上前にムバラク政権によってすすめられてきた。
人が住むにはまず水が必要↓ハイダムによってできたナセル湖から引いた運河↓

↓新しい道路の建設もすすめられている

街に住む人に働く場所として、果樹園・ナツメヤシ園の拡充がすすめられている
↓サウジアラビアの援助で以前からある緑

↓ここをもっと広くしてゆく予定

その敷地をまず囲うべく壁が建設されている↓延々と…

アブシンベルからアスワンへの道が砂漠から緑の果樹園に変わってゆくのを見てみたい。
国土のほとんどが砂漠のエジプトにとって、重要な計画にちがいない。
***

アスワンの街の入口にある「ナイル博物館」↓

↑近年できたもので、小松も入ったことがない。ガイドさんによると「子供向けです」とのことだが、子供向けのもののほうが何も知らない外国人にも分かり易いケースが多い。アスワンで余裕がある行程の旅の時に、きっと訪れるチャンスをつくりたいと密かに思っている。

↓市内で派手なテントが目についた。シーシ大統領の顔写真もある。政治的な何か?いえいえ、家具の展示販売なんだそうです(^.^)↓


↓今日のお昼ご飯はナイルの中州にあるホテルにて↓この船で渡る

このホテルは二十年ほど前にはツアーでよく泊まったなぁ。
今日のレストランは新館↓

明るいインテリアに地名が刻まれていたのだが…↓

メンバーの中のドクターが、「白内障がなにか関係あるのですか?」と言われた。
↑この壁のCATARACT(カタラクト)はナイルの急流を表わしているのだが、英語で白内障もCATARACT。
同じスペルだったのだ。知らなかった(^.^) 
二つの単語を比べると、「急流」を表す単語の方が先にあったと想像できる。
「白内障」という病気に名前をつけるときに、急流の白濁をイメージしたのかしらん。

****
レストランチェーンも経営しているだけにすばらしいバッフェランチだった



↓これは渋柿?と警戒したが…

↑焼いたニンジンでした。甘くておいしい(^.^)

ホテルの建物から川岸の小舟までカートで

アスワンの空港からカイロへ戻ります


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アブシンベル神殿へ最初の落書きをしたのは?~昼夜朝

2019-01-25 09:09:00 | エジプト
アブシンベル神殿にはじめて「落書き」を残したのは第26王朝・紀元前六世紀プサメティコス二世王だと知った↓このひざ下の部分に刻まれたギリシャ文字が見えるだろうか↓

ヌビア人が支配者だった第25王朝を追い出す遠征を行い、紀元前592年この地にたどりついた。彼の軍にはギリシャ語を話す民族も参加していたのだ。
「テオクレスの息子プサメティコスと共にやってきた異国語(ギリシャ語)を話す者、これを刻む」
↓向かって左から二つ目の像の左足のひざ下である

↓神殿の内部は、彼らが見た時も今と同じようだっただろうか?それとももっと豪華だったのだろうか↓

ラムセス二世はプサメティコス二世王の時代からでもすでに六百年も前の人なのだ。

↓神殿のいちばん奥





**
昼の見学を終えてホテルにチェックイン

↓部屋から夕暮れのナセル湖を見てから出発

夜の「音と光のショー」を観に行く
めずらしいブーゲンビリア
↓今晩の「音と光のショー」も幸い日本語がメイン言語だった

飛行機でアブシンベルに我々とは別に、多くの日本人グループがバスで来ていたから。

アブシンベルのホテルで日本語ガイドさんたちが集まっていた
ちょうどその会社の社長さんもいたのでお話しした今年の10月にはルクソールのハトシェプスト女王葬祭殿を借り切って、オペラ「アイーダ」を上演するのだそうだ。

***
朝、日の出を楽しみに三度目のアブシンベル神殿前へ↓
今日は幸い赤い太陽がのぼってきた

神殿が赤く染まってゆく

神殿は開いている。生命のカギ「アンク」がささったまま↓




朝食後、陸路でアスワンへ向かおう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする