京都の南端、急峻な山の上にある海住山寺(かいじゅうせんじ)。鎌倉時代初期12014年に建設された端正な塔がある。2022年の大河ドラマにも出てきた後鳥羽上皇が権勢をふるっていた時代といえばわかりやすいだろうか。
*
村落を抜け、急峻な参道をのぼっていく。
車を止めてさらに坂道・階段。
本堂を正面に見る位置から左手・南側に五重塔があるのだが、この見え方はいかにももったいない。
これまで見てきた塔のほとんどは最初に見えてくる姿を強く意識した位置に建てられていた。
実際この五重塔も崖の上にあるから下から見上げられることを想定している。
しかし境内に至る別の道から入ってくると冒頭写真のように屋根と同じ高さから視界にはいってくる。
この塔の場合、こちらの見せ方の方が効果的だ。
近づいて↑もう少し下の角度から。
高さは17.7メートルだから奈良室生寺の五重塔より少し高い程度。
こぶりだが端正なつくり。
↑逆側からもっと近づいて見上げる↑
いちばん下に裳階(もこし)が復元されたのは解体修理が行われた昭和37年。
四方に観音開きの扉がある↑これらの扉内側には伝説の高僧や神が描かれていて色彩がよく残されいるようだ。
十月の最終土曜日には開帳され、平安時代初期の十一面観音立像が里帰りされる。ううん、観てみたい。
扉の鍵穴はいつ頃のものだろう。
海住山寺の名前は1208年にここを再興した貞慶による。
貞慶が1213年に亡くなり、その一年後に五重塔が完成した。
後鳥羽上皇から貞慶に下賜された仏舎利が内部に納められている。
これは仏舎利塔なのだ。
貞慶より五百年近くも前の奈良時代に東大寺をひらいた良弁がここにも観音寺という寺をひらいたと伝承される。
現在も本堂にある前述とは別の十一面観音立像は、この時に地面から湧き上がってきたとされる。
聖武天皇の勅命で740年に建設された恭仁京は真南に位置するので、同じタイミングでの建立かと推察される。
ふもとのには2015年に発掘された恭仁京跡の国分寺の礎石があった。
寺宝を解説した本には一言の言及もなかったが↑本堂前の狛犬がおもしろい。
口の中に球を彫り残してある。
新しい台座には昭和の年号があったが、江戸以前のものにみえる。
↑この雄の方は足でお金を持っていると解説したサイトがあった。
こちら雌は子獅子を。
**
大型バスはたどりつけない、個人でも訪れるのに苦労する古刹。
じゅうぶんな解説と共に《手造の旅》「あなたの知らない京都」で訪れたい。
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村落を抜け、急峻な参道をのぼっていく。
車を止めてさらに坂道・階段。
本堂を正面に見る位置から左手・南側に五重塔があるのだが、この見え方はいかにももったいない。
これまで見てきた塔のほとんどは最初に見えてくる姿を強く意識した位置に建てられていた。
実際この五重塔も崖の上にあるから下から見上げられることを想定している。
しかし境内に至る別の道から入ってくると冒頭写真のように屋根と同じ高さから視界にはいってくる。
この塔の場合、こちらの見せ方の方が効果的だ。
近づいて↑もう少し下の角度から。
高さは17.7メートルだから奈良室生寺の五重塔より少し高い程度。
こぶりだが端正なつくり。
↑逆側からもっと近づいて見上げる↑
いちばん下に裳階(もこし)が復元されたのは解体修理が行われた昭和37年。
四方に観音開きの扉がある↑これらの扉内側には伝説の高僧や神が描かれていて色彩がよく残されいるようだ。
十月の最終土曜日には開帳され、平安時代初期の十一面観音立像が里帰りされる。ううん、観てみたい。
扉の鍵穴はいつ頃のものだろう。
海住山寺の名前は1208年にここを再興した貞慶による。
貞慶が1213年に亡くなり、その一年後に五重塔が完成した。
後鳥羽上皇から貞慶に下賜された仏舎利が内部に納められている。
これは仏舎利塔なのだ。
貞慶より五百年近くも前の奈良時代に東大寺をひらいた良弁がここにも観音寺という寺をひらいたと伝承される。
現在も本堂にある前述とは別の十一面観音立像は、この時に地面から湧き上がってきたとされる。
聖武天皇の勅命で740年に建設された恭仁京は真南に位置するので、同じタイミングでの建立かと推察される。
ふもとのには2015年に発掘された恭仁京跡の国分寺の礎石があった。
寺宝を解説した本には一言の言及もなかったが↑本堂前の狛犬がおもしろい。
口の中に球を彫り残してある。
新しい台座には昭和の年号があったが、江戸以前のものにみえる。
↑この雄の方は足でお金を持っていると解説したサイトがあった。
こちら雌は子獅子を。
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大型バスはたどりつけない、個人でも訪れるのに苦労する古刹。
じゅうぶんな解説と共に《手造の旅》「あなたの知らない京都」で訪れたい。