白毫にもうひとつの目がある。
それは一年に一度、元旦にだけ開かれる。
晩年視覚を失ったボグド・ハーン8世によって鋳造された、屋内にあるものとしては世界最大の仏像。
高さは26.5mもある↑※左下の人物と比べてください
「ガンダン寺は1778年にこの地に創立した」とガイドさんに説明された。
※創建年は英語Wikiでは1809年、日本語Wikiでは1727年となっている。
寺で配られる英語ガイド2008年版には、「もとはウランバートルの中心にあったものが、1838年に現在の地に第五代ボグド・ジェプツェンダンパが移動させて創立した」と書かれていた。
今年2023年に渡されたものでは、1656年に第一代ボグド・ジェプツェンダンパであるゲゲーン・ザナバザルによってKhentii Mountains(日本語表記「ヘンティ山脈」)に創立されたとある。
いろいろ読んでみると、19世紀までは住宅も寺院も移動式だった。
1600年代前半にボグド・ジェプツェンダンパ一世=ゲゲーン・ザナバザルがモンゴルの首都イル・フレーを創立したが、それも移動していた。
イル・フレーが現在の場所から動かなくなったのが18世紀後半から19世紀はじめ。
社会主義時代にウランバートル(「赤い英雄」の意)と名付けられた。
**
ガンダン寺の近くには「ゲル地区」がある。
ぱっと見て貧しい地区なのがわかる。
昔ながらの移動式住居=ゲルに住み続けることを守るエリアなのだが、
それはつまり、現代のモンゴルについていけないことを意味してしまう。
今はゲルではなくバラックの家の方が多い。
トタン塀で区切られた土地にゲルの屋根が見える↑
かつては領主も皇帝も移動式住居で暮らしていたモンゴル人だが、
1990年の民主化後ウランバートル周辺では土地所有がみとめられるようになり、
定住する人の方が圧倒的に多くなってきた。
遊牧生活をしているのは国民の一割程度になっているのだそうだ。
ガンダン寺の裏に出た。
観光バスで来ると通らない道である。
敷地の横から寺領に入ると↑いくつも独立した名前を持つ寺の建物がある↑日本式に言えば塔頭(たっちゅう)
↑本殿に向かって右にあるこの建物は、2008年に寺で配られていた英語解説によればDechengalpa datsan(デチェンガルパ寺)。もとはウランバートルの中心にあったが1992年にガンダン寺に移築された。2023年に配られた英語解説では第四世ボグド・ジェプツェンダンパが1801年に創立したDuinkhor college(ドゥインコル・カレッジ)で、学問所としての役割を社会主義時代前まで果たしていた。1961年に規制が緩まると年に一度カーラチャクラ(チベット仏教の秘儀のひとつ)を行う場となり、1995年にはダライラマ14世が21回目の~チャクラをここで行った。二つの案内にある写真を比べると似ているが全く同じではない。改修が加えられたようにみえる。
上の写真で左に見えている本堂に入る
ここだけは入場料が書かれているが、誰もいない。
堂内に巨大な菩薩様の足が見えている。
足元にはダライラマ14世の肖像写真がいくつも飾られていた。
冒頭写真の巨大菩薩像は、もとは1912年にボグド・ジェプツェンダンパ八世=君主ボグド・ハーンがつくらせた。
1911年の辛亥革命で清朝の支配が終わり、モンゴル・ウルス(国)として独立した翌年である。
宗教指導者でしかなかったボグド・ジェプツェンダンパは、政治指導者=君主ボグド・ハーン8世に担ぎ上げられた。
この頃のモンゴルは政教一致で、その中心だったガンダン寺には五千人もの僧が住んでいたという。
しかし、この宗教国家としての独立時代は長く続かない。
中華民国が再び勢いを強めて侵攻してくるのを止めるため、
モンゴルがソ連の力を借りて社会主義国として独立した1924年からは仏教大弾圧がはじまる。
ガンダン寺の巨大菩薩は1939年にソ連により持ち去られて(たぶん溶かされて)しまった。
再建は1990年の民主化後。
すぐに再建計画がはじまり1996年に完成式典が行われた。
像は青銅で鋳造され、35㎏の金が塗られ、の内部は空洞。
「トラック三十台分の香草が詰められているのです」と
入口チケット売り場に戻ってきた僧が言った。
***
ガンダン寺にある多くの塔頭。
↑ここには高僧の墓があった
↑手前の台は五体投地に使われるもの↑
広い敷地を歩いていると、ひときわ古そうな建物に出会った↓
↑2023年の英語案内にはなかったが、2008年の解説に載っていた↑
↑14世紀に金文字で書かれた経を蔵している↑
↑初代ボグド・ジェプツェンダンパ=ザナバザルが1680年に母の求めに応じて描いた自画像もあるのだそうだ↑
近くにあったもうひとつの古そうな建物は↑ゲルの形状を留めている↑
↑こちらも2008年の解説から、1739年に二代目ボグド・ジェプツェンダンパがつくらせたものと分かった。
我々日本人は、ゲル=移動式住居を「簡易」で「一時的」なものだと思っているが、
モンゴル人にとっては何百年も使い続けられる建物だったのか。
****
我々が到着してからずっと、
大講堂で行われている「講義」が大きな音で流されている。
ちょっと行ってみることにした。
それは一年に一度、元旦にだけ開かれる。
晩年視覚を失ったボグド・ハーン8世によって鋳造された、屋内にあるものとしては世界最大の仏像。
高さは26.5mもある↑※左下の人物と比べてください
「ガンダン寺は1778年にこの地に創立した」とガイドさんに説明された。
※創建年は英語Wikiでは1809年、日本語Wikiでは1727年となっている。
寺で配られる英語ガイド2008年版には、「もとはウランバートルの中心にあったものが、1838年に現在の地に第五代ボグド・ジェプツェンダンパが移動させて創立した」と書かれていた。
今年2023年に渡されたものでは、1656年に第一代ボグド・ジェプツェンダンパであるゲゲーン・ザナバザルによってKhentii Mountains(日本語表記「ヘンティ山脈」)に創立されたとある。
いろいろ読んでみると、19世紀までは住宅も寺院も移動式だった。
1600年代前半にボグド・ジェプツェンダンパ一世=ゲゲーン・ザナバザルがモンゴルの首都イル・フレーを創立したが、それも移動していた。
イル・フレーが現在の場所から動かなくなったのが18世紀後半から19世紀はじめ。
社会主義時代にウランバートル(「赤い英雄」の意)と名付けられた。
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ガンダン寺の近くには「ゲル地区」がある。
ぱっと見て貧しい地区なのがわかる。
昔ながらの移動式住居=ゲルに住み続けることを守るエリアなのだが、
それはつまり、現代のモンゴルについていけないことを意味してしまう。
今はゲルではなくバラックの家の方が多い。
トタン塀で区切られた土地にゲルの屋根が見える↑
かつては領主も皇帝も移動式住居で暮らしていたモンゴル人だが、
1990年の民主化後ウランバートル周辺では土地所有がみとめられるようになり、
定住する人の方が圧倒的に多くなってきた。
遊牧生活をしているのは国民の一割程度になっているのだそうだ。
ガンダン寺の裏に出た。
観光バスで来ると通らない道である。
敷地の横から寺領に入ると↑いくつも独立した名前を持つ寺の建物がある↑日本式に言えば塔頭(たっちゅう)
↑本殿に向かって右にあるこの建物は、2008年に寺で配られていた英語解説によればDechengalpa datsan(デチェンガルパ寺)。もとはウランバートルの中心にあったが1992年にガンダン寺に移築された。2023年に配られた英語解説では第四世ボグド・ジェプツェンダンパが1801年に創立したDuinkhor college(ドゥインコル・カレッジ)で、学問所としての役割を社会主義時代前まで果たしていた。1961年に規制が緩まると年に一度カーラチャクラ(チベット仏教の秘儀のひとつ)を行う場となり、1995年にはダライラマ14世が21回目の~チャクラをここで行った。二つの案内にある写真を比べると似ているが全く同じではない。改修が加えられたようにみえる。
上の写真で左に見えている本堂に入る
ここだけは入場料が書かれているが、誰もいない。
堂内に巨大な菩薩様の足が見えている。
足元にはダライラマ14世の肖像写真がいくつも飾られていた。
冒頭写真の巨大菩薩像は、もとは1912年にボグド・ジェプツェンダンパ八世=君主ボグド・ハーンがつくらせた。
1911年の辛亥革命で清朝の支配が終わり、モンゴル・ウルス(国)として独立した翌年である。
宗教指導者でしかなかったボグド・ジェプツェンダンパは、政治指導者=君主ボグド・ハーン8世に担ぎ上げられた。
この頃のモンゴルは政教一致で、その中心だったガンダン寺には五千人もの僧が住んでいたという。
しかし、この宗教国家としての独立時代は長く続かない。
中華民国が再び勢いを強めて侵攻してくるのを止めるため、
モンゴルがソ連の力を借りて社会主義国として独立した1924年からは仏教大弾圧がはじまる。
ガンダン寺の巨大菩薩は1939年にソ連により持ち去られて(たぶん溶かされて)しまった。
再建は1990年の民主化後。
すぐに再建計画がはじまり1996年に完成式典が行われた。
像は青銅で鋳造され、35㎏の金が塗られ、の内部は空洞。
「トラック三十台分の香草が詰められているのです」と
入口チケット売り場に戻ってきた僧が言った。
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ガンダン寺にある多くの塔頭。
↑ここには高僧の墓があった
↑手前の台は五体投地に使われるもの↑
広い敷地を歩いていると、ひときわ古そうな建物に出会った↓
↑2023年の英語案内にはなかったが、2008年の解説に載っていた↑
↑14世紀に金文字で書かれた経を蔵している↑
↑初代ボグド・ジェプツェンダンパ=ザナバザルが1680年に母の求めに応じて描いた自画像もあるのだそうだ↑
近くにあったもうひとつの古そうな建物は↑ゲルの形状を留めている↑
↑こちらも2008年の解説から、1739年に二代目ボグド・ジェプツェンダンパがつくらせたものと分かった。
我々日本人は、ゲル=移動式住居を「簡易」で「一時的」なものだと思っているが、
モンゴル人にとっては何百年も使い続けられる建物だったのか。
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我々が到着してからずっと、
大講堂で行われている「講義」が大きな音で流されている。
ちょっと行ってみることにした。