旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

コルティギン(キョルテギン)碑文~モンゴル歴史博物館①

2023-09-14 17:14:01 | モンゴル

現在モンゴルと呼ばれている地域の歴史をたどっていくと、多様な文字で多様な言語が刻まれてきたことに驚かされる。

モンゴル歴史博物館入口前に置かれている鐘には

中国語とチベット語とモンゴル語が刻まれている。

↑中国語の部分では「この鐘は山西省で吉日に造された」と書かれている。

↑縦書きのモンゴル語の部分では
「清の光緒帝30年目に造られた。良質の鉄と石炭のとれる山西省は多くの鐘の生産地である。」と書かれているそうな。※チベット語の部分は解説がなかった
光緒帝は1875年に即位しているから、この鐘は1905年のものと分かる。
※西太后によって三歳で即位させられた傀儡幼帝だった光緒帝。
日清戦争で敗北し衰退していく大国清を憂いたが、西太后により幽閉され34歳で没している。

**
モンゴルの草原には、
青銅器時代からの「鹿石」が何百も残されている↓

※こちらにもう少し書きました
↑上の写真で左側に写っている石柱の四面をスキャンして並べたのが下↓

↑二千年以上前とは思えないデザイン性↑鹿のような動物が躍動している


六世紀には中国で「突厥」と呼ばれた民族が「石人」を残した。
※日本でも「突厥」で紹介されている民族は=トルコ系。

↑「石人」がつけているイヤリングが

↑その墓からも見つかっている。

↑デフォルメされた様々な形状だが、

↑胸の前で盃を持っている↓

これらのオリジナルの多くは博物館に収蔵されてしまったが、

↑モンゴルの広い空の下にあった姿を思い描いてほしい↑上は実際に草原にあった時の写真
***
唐の時代に立てられた高さ3.3mの★突厥碑文↓
コルティギン碑文(※「地球の歩き方」には「キョルテギン碑」として掲載)
1898年にロシアの探検隊がウランバートルの西400km・カラコルムから60kmの場所で発見した。
文字はデンマーク人のトムゼンが解読。

↓8世紀、漢字と突厥文字の両方で書かれている↓
↓レプリカだが間近で細部まで観察することができる↓

↑西面の漢字部分末↓

↑「大唐開元二十年」と読める↓

開元という年号は、玄宗皇帝が即位翌年=西暦713年に改元してはじまった。
二十年目は西暦732年になる。
※玄宗皇帝は晩年には楊貴妃におぼれて暗愚となり反乱に遭うが、この当時は若く有能な皇帝だった。

漢字部分の書き手は
博物館の英語解説によるとChinese emperor Xuan Zongの甥のGeneral Zhang。
これはつまり、
Xuan Zong(=玄宗皇帝)の甥のGeneral Zhang(=皇帝の甥の将軍・張巡)ということ。
日本人には漢字で説明してもらわないと理解できない。
逆にモンゴル人は漢字表記されても理解できない。

玄宗皇帝は突厥の平定を甥の張巡に命じ、
張巡は現地の統治者だったコルティギンと平和条約を結んだのだった。
唐にかぎらず中国の大国は圧倒的な経済力と文化力があったから、草原の異民族を直接支配する必要などない。
他の周辺国にも求めているように、朝貢し・敵対しなければそれで充分だった。

ここからは小松の仮説。
張巡は平和条約締結後に首都長安(=現在の西安)でこの碑を制作させ、
漢字部分だけを刻んでコルティギンの元へ送ったのではないだろうか。
文字は、それを理解できる人でなければ美しく書けない。

碑文の空白部分に、
コルティギンは亡くなっていたので兄のビルゲハーンが突厥文字(トルコ文字)の部分を刻んで、
コルティギンの墓の一部に立てた。
漢字部分の横に一部刻まれている突厥文字のルビは、突厥側で付記された。

↓東面と南面にびっしり突厥文字↓

突厥文字とは…唐の人々がそう呼んだが、調べても実態がよくわからない。
トルコ系の民族が自分たちの言葉を表記するのに使った文字(と、小松は理解した)。
つまり、一種類の文字ではなく、ソグド文字やウイグル文字、インドのブラフミー文字などに様々な影響をうけている。ぱっと見てヨーロッパでバイキングが使っていたルーン文字と似ていると感じた。イスタンブールのアヤソフィアに残る傭兵が残したとされる落書きルーン文字にも似ている↓
↓※2012年にイスタンブールを訪れた時↓「ビザンチン時代に雇っていたバイキング傭兵のものと思われる落書きが残されていますよ」と言われ連れて行ってもらった。二階のてすり部分だった↓


碑文の話にもどる。
★突厥文字の部分は神から選ばれた一族歴代の出来事を記す。
※碑の原文とトルコ語を対比したページにリンクします
北面はビルゲハーンの息子Yollug Tigin(=伊然可汗)が記している。

ビルゲハーンと息子としては、大国唐の後ろ盾を得たことを周辺の部族に誇示した碑文。
唐の玄宗皇帝としては、平和共存する国になってくれて感謝する碑文。
と、理解した。


この碑はこれだけぽつんと立っていたのではなく、コルティギンの巨大な墓の一部だった。

周囲にはトルコ民族の伝説のルーツである狼のモニュメントや鷹や石人もたくさん存在していたようだ。
↑これはコル・ティギンその人の顔だと解説されていた(レプリカ)

↑口だけだがこちらはその妻のもの(ホンモノ)

19世紀後半から世界中の探検隊が発見し争奪していったこうした碑文は、
今となってはもともとどのように存在していたのか正確にしることが難しい。
それでも数少ない文字資料が語るモンゴルの歴史は、多様な民族が多彩な言語と文字を使っていたことを感じさせてくれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする