旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

沖縄の「神の島」久高島の水場

2023-01-13 10:31:52 | 国内
防風林の間から見えた真っ青な海にはっとした。
抜けると海に下りる階段がある↓


久高島は周囲8㎞。いちばん長いところで3.21㎞の細長く平たい島※交流センターのジオラマ↓

それなのに海岸に真水の湧く場所がある。
そこへ降りてゆく急な階段。

2014年ごろに台風で壊れたが修復された。

この水場は御嶽(うたき=沖縄で聖なる場所・礼拝場)となっている。
久高島には海岸に真水の湧きだした場所が五カ所(もっと?)あるそうだが、
ここは●「ヤグルガー」と呼ばれる聖所。
沖縄の国のはじまり神話に、海から五穀が入った壺が流れてくる話がある。
この泉で最初の女性であるファガナシーが沐浴してやっと壺を拾うことができた。

調べていくと小さな島の南西岸地下に短い水の流れがいくつもある。
「ヤグルガー」は=屋久留川だと書いていたものもあった。
「ガー」は川や井戸を表す言葉である。

沖縄独特の平たい線香↑
誰かが祈りに来ていたのだ。

島の東海岸へ移動する

●イシキ浜は前出のファガナシーが五穀が入った壺を手に入れた場所

琉球王国はここから農耕がはじまったとしてとりわけ大切な場所としてきた。

この浜の白い砂は、本島側にある斎場御嶽(せーふぁーうたき)の聖所にも運ばれている。

今でもここは島の成人男性の健康祈願が行われ、石を一つ拾って持ち帰り・次の年に戻しにくるのだそうだ。

↑この積まれた小石の山は最近戻された石だとガイドさん↑

↑草影に異質な軽石がたくさん流れ着いていた。
これは2021年11月に噴火した小笠原の海底火山からのもの。
忘れていたニュースが、急にリアルに感じられた。
後日、那覇のシーサー工房を訪ねた時、
受験のお守りとして尻尾にこの軽石を使ったものが売られていた↓

↑「受かる{浮軽)シーサー」なるほど(^^)
**

南西岸のもうひとつの水場↑

ここも階段を降りた海近くに水が湧きだしている

「子供の頃はここへ一斗缶(18ℓ)で水を汲みにいかされて、それがイヤで早く島を出たいと思ったものだ」

案内してくれたタケヨシさんが言った。

村を歩いて多くの家に巨大な円筒形のコンクリート筒があるのが気になったが↓

↓これは雨水を溜めておくためのものだとわかってきた

今は本島から送水管で水が送られていて↓

↑この給水塔に上げて圧力をつけて各家の水道に送られている。

久高島が神の島と呼ばれるようになるきっかけは
水が貴重な離島にもかかわらず、水が豊富に湧き出していたことによるのかもしれない。
●ハタス(あえて漢字で表記するなら「走水」)は、
最初に紹介した「ヤグルガー」の近くにある畑↓

↑イシキ浜に流れてきた壺に入った五穀はここに蒔かれ、
その後島全体・琉球全体に広がっていったとされている。
よってここも聖所=御嶽(うたき)となり、東を向いた香炉が置かれている。

※南城市の解説ページにリンクします
小さな島でも地下に真水があったから、
ここで五穀を育てることができたのだ。
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斎場御嶽(せいふぁーうたき)

2023-01-10 07:18:29 | 国内
琉球王国時代の「最高の=斎場(せーふぁー)」「聖域=御嶽(うたき)」。
そこに似つかわしくない砲台跡が残されてた。

ここは聖域に入る前に禊をおこなった「うろーかー」と呼ばれる場所。
さらに上にある御嶽から沁み込んだ水が地上に沁み出して小さな泉になっている。

↑地図上で右下の国道から籔道を踏み分けて入ったところに「ウローカー」の表記は見える↑が、砲台は描かれていない。

きれいな水にヤモリがたくさん


王朝時代の聖所もしかし、戦争になれば踏み荒らされる。

東の海を向く二つの砲台跡は泉のすぐ近く。ここにあった大砲がアメリカ軍の船に向かって火を噴いたことはあったのだろうか。

二つの砲台をつなぐぼろぼろのコンクリート舗装が残る。
解説版には「迷彩塗装の黒いペンキ跡がみえる」とある。

砲台陣地の奥に進むと、さらに登ってゆく荒れた階段があって、

↑地図上の「御門口(うんじょうぐち)」に行きつくことがわかる↑この写真は「うろーかー」から上がってくる荒れた階段を見下ろしたところ。通行止めになっている。
入場券を買って入るエリアからは「うろーかー」へ降りることはできなくなっていた。

「久高島遥拝所」

↑琉球のはじまりの神が降り立ったという久高島が見える↑最高地点海抜17メートルの細長い島。

↑地図上の御門口(うんじょうぐち)から先は、昔は一般人が入れなかったエリア。

↑祝女たちを見送る人々は、入口に立てられた六つの香炉にむかって拝んでいたのだそうだ。


↑香炉とはいうものの、ほとんどの場合自然石に少しくぼみをつけたていどのもの。

整備された道をあがっていくと道は左右に分かれ、

左に行った突き当りが「寄満(ゆいんち)」


実際には献上された交易品を収蔵していた場所かもしれない。

右の道の突き当りが、斎場御嶽でもっとも大事な三庫理(さんぐーい)と、「ちょうはな」。

↑右手前の巨石の上が「ちょうはな」で、そこから下に向かってのびた二本の長い鍾乳石の先からしたたる水をうける壺が置かれる。
「ちょうはな」の巨石と、さらに向こうの巨石の間に絶妙の空間がある↓

↑上の写真左下まで行って正面から見ると↓

斎場御嶽といえばこの写真がでてくる↑
↑三角をくぐってすぐの香炉の地下から1998年(平成10年)に金の勾玉(まがたま)が見つかった↓

勾玉(まがたま)は日本と朝鮮半島の形状で弥生時代から古墳時代まで広く発掘される。
が、金製というのはほとんど類例がない※和歌山で一例

↑こちらは資料館に展示されていたレプリカだが思ったより大きい。

↑さらに大陸からの銭や金色の「厭勝銭(「えんしょうせん」、または「ようしょうせん」)」もたくさん。鳩の目に似ているので「鳩目銭」と通称される。

この時の発掘では排水設備の溝もみつかった↓

現場ガイドさんに訊ねると、溝が地中に潜った先の出口までつれていってくださった。

土の中から出ているパイプは発掘後にとりつけられたものだろう。
今日は良い天気だけれど降水量はかなり多い地域だから水を逃がすルートをつくっておかないとあっという間に流されてしまうのだとわかる。
**
資料館とチケットセンターから斎場御嶽に歩く途中で見つけたこれも水路?↓

↑写真を見せると昔からのここを知るガイドさんが
「昔・といっても戦後に生活用水を溜めていた穴が危ないのでふさいでいるんでしょう」と言われた。

古今、水の苦労は絶えない沖縄です。
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海住山寺の国宝五重塔

2023-01-04 07:50:11 | 国内
京都の南端、急峻な山の上にある海住山寺(かいじゅうせんじ)。鎌倉時代初期12014年に建設された端正な塔がある。2022年の大河ドラマにも出てきた後鳥羽上皇が権勢をふるっていた時代といえばわかりやすいだろうか。


村落を抜け、急峻な参道をのぼっていく。
車を止めてさらに坂道・階段。

本堂を正面に見る位置から左手・南側に五重塔があるのだが、この見え方はいかにももったいない。
これまで見てきた塔のほとんどは最初に見えてくる姿を強く意識した位置に建てられていた。
実際この五重塔も崖の上にあるから下から見上げられることを想定している。

しかし境内に至る別の道から入ってくると冒頭写真のように屋根と同じ高さから視界にはいってくる。
この塔の場合、こちらの見せ方の方が効果的だ。

近づいて↑もう少し下の角度から。
高さは17.7メートルだから奈良室生寺の五重塔より少し高い程度。
こぶりだが端正なつくり。

↑逆側からもっと近づいて見上げる↑
いちばん下に裳階(もこし)が復元されたのは解体修理が行われた昭和37年。

四方に観音開きの扉がある↑これらの扉内側には伝説の高僧や神が描かれていて色彩がよく残されいるようだ。
十月の最終土曜日には開帳され、平安時代初期の十一面観音立像が里帰りされる。ううん、観てみたい。

扉の鍵穴はいつ頃のものだろう。

海住山寺の名前は1208年にここを再興した貞慶による。
貞慶が1213年に亡くなり、その一年後に五重塔が完成した。
後鳥羽上皇から貞慶に下賜された仏舎利が内部に納められている。
これは仏舎利塔なのだ。

貞慶より五百年近くも前の奈良時代に東大寺をひらいた良弁がここにも観音寺という寺をひらいたと伝承される。
現在も本堂にある前述とは別の十一面観音立像は、この時に地面から湧き上がってきたとされる。

聖武天皇の勅命で740年に建設された恭仁京は真南に位置するので、同じタイミングでの建立かと推察される。

ふもとのには2015年に発掘された恭仁京跡の国分寺の礎石があった。



寺宝を解説した本には一言の言及もなかったが↑本堂前の狛犬がおもしろい。
口の中に球を彫り残してある。

新しい台座には昭和の年号があったが、江戸以前のものにみえる。

↑この雄の方は足でお金を持っていると解説したサイトがあった。

こちら雌は子獅子を。

**
大型バスはたどりつけない、個人でも訪れるのに苦労する古刹。
じゅうぶんな解説と共に《手造の旅》「あなたの知らない京都」で訪れたい。
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石清水八幡宮と橋本遊郭跡の存在を知る

2023-01-02 21:06:27 | 国内
「橋本遊郭跡」は崩壊しつつあった。
京都から大阪へ流れる大河・淀川に、奈良時代初頭の僧・行基が架橋すると枚方側の地名は「橋本」となった。
江戸時代にはすでに渡し船が運航するだけになっていたが、繁盛する港には大きな遊享街があった。
昭和62年に運航が停止されるとゆっくりと衰亡してゆき、いまやその名残も消えようとしている。

学生時代を高槻と京都で過ごしたが、石清水八幡宮の存在を知らなかった。
高槻から171号線を淀川上流・京都方向に走る。
桂川、宇治川、木津川が合流する大山崎で川を渡ると、正面に見えてくる山の上にあるのが石清水八幡宮。

↑山の中に見えている大きな屋根は麓の高良神社・極楽寺。
徒然草のなかで仁和寺の法師が石清水八幡宮と思い込んで参拝したところか。
こうしてみると山上に本当の目的地があるようにはみえなかったのも理解できる。

今日・正月二日は参拝客の車が殺到するので交通規制がおこなわれていた↑
今は山上までケーブルカーが運航しており、山頂からの景色は価値があるようだ。


↑手前には「淀川三合流域さくら出会い館展望台」があった↑

淀川の中州に沿って桜並木が楽しめるのだそうだ。
桜の頃に来てみたい(^^)

石清水八幡宮には寄らずに淀川を右にみながら枚方方面にむかう。
すると、冒頭の「橋本遊郭跡」が左に見えてくる。

解説されなければただの老朽化した家々↑
価値を理解させてくださる方を探して、歩く機会をつくりたい。

地元の歴史をよく知らないのは自分も同じだった…。

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