KCF的徒然草

KouChan's Factory管理人の心の叫びor反省文

表現するということは

2010-06-25 00:27:01 | ニュース

 たとえば、絵を描いたり,写真を撮ったり,音楽を演奏したり歌ったり踊ったり、詩や小説を書いたりするとき、作者には何らかの意図、テーマというのが大なり小なり存在するはずだと思う。それを自分の体を使ったり、創造したりすることでひとつの「表現」をしているわけです。ときに過激に、ときにユーモアを交えて。そんな要素のひとつひとつが楽しいわけで。表現活動によって得られる快楽は、実際に作って(実践して)みないとわからないです。

 しかし、この記事に出てきた学生諸君は、そのことをどうも履き違えていたらしい。嫌がる女性を騙し、そのギャップを動画として公開したそうだ。また、これは未遂に終わったそうだが、商店を営む男性に意味ないインタビューをし、最後に「この店つぶれる」などと悪口を吐き捨てた・・・などという動画もあったそうだ。

 彼ら曰く、「不道徳なものから生じるおかしみ」を表現したかったそうだが、もうこの時点で間違っているように思う。

 芸術活動がときに社会性(あるいは反社会性)を持ったり、意図せずに作品のみが一人歩きしてしまうことはあるが、道徳まで否定することはないと思っている。もしあったとしても、それはうわべだけで、その奥に隠れたメッセージが必ずあるはずで。

 そう考えると、彼らの表現行為は単なる「弱い者イジメ」でしかない。弱いものイジメを快楽にしたから始末におえない。彼らのために迷惑をこうむった女性の気持ちをまったく考えてなかったことはもう間違いないな。

少なくとも、相手になにかしらの心地よさが残らなければ、そもそも表現活動としても成り立たないと思うのだが。といって、自分が表現したものが誰の目にも触れられない、というのも寂しすぎるかも・・・。 

コメント
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