KCF的徒然草

KouChan's Factory管理人の心の叫びor反省文

野菜ないか?勿体ない気がして・・・

2010-03-10 22:31:25 | 音楽

 ここ数回は、ちょっと感傷的な内容だったので、今回は元気がでる音楽ネタでいきます。

 小学生の1~2年生頃だと思うが、運動会のマスゲームで「ジンギスカン」の曲に合わせて踊った。どんな振り付けだったかはもう覚えていないけど、曲だけは鮮明に覚えていた。そんなわけで、時々「ジン・ジン・ジンギスカ~ン♪」なんて、無意識に口ずさんでいたりする。

 あんまり気になったのである日、ふとYou○ubeで調べたら、当時の映像を見ることができた。のだが、そこで「ジンギスカン」がグループだったことをはじめて知った。

 一夜漬けの知識をちょっとだけ披露すると、「ジンギスカン(DSCHINGHES KHAN、日本ではGENGHIS KHAN)」は、70年代~80年代に活躍した、西ドイツ(当時)のディスコ・グループで男女6人構成。歌詞がドイツ語なのはそのため。本国のみならず、海外でもヒットし、日本でも「ジンギスカン」の他、「めざせモスクワ」など大ヒットしたそうです(以上知ったかぶり知識終わり)。

「~モスクワ」は、ちょっと前流行った空耳フラッシュ(「のまのまイエィ」のノリのヤツね)にもなっていたらしい。Youtubeで映像観たのだが・・・なんだかなぁ。

と、そんな寄り道しながら調べていくうちに、1枚アルバム欲しくなり、先日HMVで購入。

Img_45501

 本当はオリジナル(1枚目)が欲しかったのだが、最近発売されたこのベスト版しかなかった。しかし、普通の洋楽ジャンルではなく、ディスコ/ソウルのコーナーにあった。日本ではいまだにジンギスカンというと「××ディスコ」の代名詞となっているようです・・・ねぇ。

 日本での人気ぶりなどから推察するに、いわゆる「一発屋」かと思っていたら、じつは最近も活動していた(している?)ようで、公式サイトもある。この中に一部日本語のページもあるが、興味ある人は覗いてみてはいかが。なかなか読み応えありますよ。

 ところで、今回のサブタイトルの意味ですけど、「空耳アワー」か何かで、ジンギスカンをこんな風に取り上げてたと思うんですよね・・・、ちょっと不確定情報でスマヌ。

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別れもあれば、再会もあるのさ

2010-03-09 00:14:25 | 日記・エッセイ・コラム

 前回のつづき。

 長いながい昏睡状態の末、祖母は旅立った。1月とは思えない陽気の前の晩のことだった。

ここからはなしは一月以上前の記憶に遡る。

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 葬儀は、両親と親族のみで行う、家族葬ということになった。通夜も告別式も僧侶もなく、家族だけで見送ることになった。

そして、祖母を見送る日もまた、めずらしいほどの陽気だった。

 何年かぶり親戚の伯父、伯母、従兄弟と会う。とくに従兄弟の中で最年長のTさんに会えたのが、何より嬉しかった。小さい頃「たーちゃん」と呼んでいたTさんは、学生時代はラグビーにアメフト、社会人になってからは主に海外で活躍された。8つ年上のまさに頼れる従兄だ。広島から、奥様と今年中学生になる娘さんと3人で参列されたのだ。

 ぼくには従兄弟が7人いるのだが、今回祖母の孫として見送ったのは自分と弟、そしてTさんの3人だけだった。

 市内の葬儀センターにて、親戚一同13名だけで、祖母を見送る。通夜、告別式はないかわりに、最後の別れをする告別場があり、そこで顔や胸に切り花を添えていく。穏やかな祖母の顔に。

 やがて棺が閉じられ、いよいよ本当の最後の別れのときが近づく。遺族代表3名(両親と長男の自分)だけ残り、すぐ隣の火葬場へ、棺に続いてゆく。

 ここでは特に念入りに、手続きを確認をする。火葬許可証の確認、火葬場の番号の確認。ひとつひとつを両親と自分が確認する。ひとつでも手違いがあってはならないからだ。

 すべてを確認したのち、棺はいよいよ炉の中へ納められた。シャッターがゆっくり閉じていくのを正視できなかった。

一区切り着いて、収骨までの間、休憩所で待機。乾きもの食べたり、記念写真を撮ったりする。親戚の伯母と話すのも久しぶりだが、やはり従兄弟で長兄のTさん一家と会話できたのが嬉しかった。

 最初は人見知りしていた彼のお嬢さんも、少しずつ話し出してくれた。Tさんが、一家の家系図を書き、大婆ちゃん(祖母のこと)からはじまって、この席にいるのが○○叔母さん、あちらが△△叔父さん、といった感じで、ぼくも彼女に「叔父さん」なんて呼ばれて少し照れくさくなった。けど彼女にとっては本当のことだからね。

 1時間後、また現実に引き戻される。収骨の時間になった。

 火葬場から焼け出されたばかりの遺骨を確認するが、両親、そしてぼく、3人とも言葉がでなかった。あまりに変わり果ててしまった姿に、呆気にとられた。骨格はかろうじて確認できたが、やはり骨は老衰からか、スカスカになっていた。それを皆で拾い上げていく。

 2時間ほどで、葬式は終わった。翌日には早速、墓地にいれることになっていたが、この日は実家でお骨を安置することになった。親戚達とは、ここでお別れ。

 車での帰路、助手席の自分が祖母のお骨を抱えて実家へつれていく。途中、父が車のルートを違う方へ向けた。向かった先は、ぼくや弟が幼い頃住んでいた住宅地。自分が幼稚園のころの話を懐かしく語る母親。今の自分よりも若い頃のことだった。ちなみに、弟はまだ乳飲み子、それがもうすぐ父親になるのだから、いかに遠い時間を経てきたのだろう。

実家に仮の祭壇を飾り、お骨を安置したところで、ようやく葬儀は終わった。

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 一月前の日記からちょっと加筆しました。

 親しかった人と別れるのは、やはり辛い。しかし、あとで聞くと、祖母の悲報を報じたところ、逆に「立派な人生でした」と、会う人会う人みな、そういってくれたという。それがひとつの救いだったと、残された我々は思った。

果たしてそういわれるような人生を、今後送れるだろうか?答えは臨終の時にならないと分からないのだが・・・。

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実は・・・

2010-03-06 20:10:13 | 日記・エッセイ・コラム

 まずは諸々の事情により、ご報告遅れましたことをお詫びいたします。

1月下旬、ぼくの祖母が他界しました。

行年九十一。大きな病気ひとつしなかった、まさに大往生でした。

 葬儀は家族と親戚だけの、家族葬という形式で執り行い、そして今日、四十九日法要を、祖母の眠る墓前で、雨の中執り行いました。お坊さんに読経してもらったのは、よくよく考えると今回はじめてのことだ。午前十時十五分、ちょうど法要の始まる頃から雨は降りだし、終わる頃には小降りになった。きっと涙雨だったのかもしれない。

 その後、近くのレストランにて精進落としの食事会。ここは祖父(同じ墓に眠る)の墓参のあといつも寄っていたのだが、祖母はいつもきまって寿司と、デザートにバニラアイス入りあんみつを食されたという。そんな思いから、きょうは家族親戚全員でデザートにあんみつを頂いた。

葬儀のこと、祖母のことは、また日を改めて纏めたいと思ってます。

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山もあれば谷もあるさ

2010-03-03 23:55:53 | 日記・エッセイ・コラム

 調子が上り坂の日もあれば、下り坂の日もあるさ。

 仕事がスムーズに行く日もあれば、テンパッてひとりてんてこ舞いを演じる日もあるさ。

 買い出しで、豚肉半額に喜んだかと思いきや、サランラップ買い忘れる日もあるさ。

 生きてりゃこんなことの繰り返し、今更うじうじしてもしかたない。

 けど明日はコワイ・・・。

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