熊本熊的日常

日常生活についての雑記

小室哲哉がヒットをとばしていた頃

2008年11月04日 | Weblog
小室哲哉が逮捕された。最近その名前を耳にしないと思っていたが、やはり苦労していたらしい。一時期は、ヒットメーカーのような扱いをされていたが、実際にヒット曲を連発していたのは1994年から1997年にかけてである。すっかり過去の人だった。

氏が活躍していた頃、私は個人的に大変な時代だった。バブルが弾けて日本経済が急速に悪化を続けるなか、勤務先の悪足掻きに駆り出され、次から次へと押し付けられる慣れない仕事に右往左往していたものだ。迷走状態にあったのは私の勤務先ばかりではなく、同業他社も似たような状況で、なかには倒産するところもひとつやふたつではなかった。世間全体が右往左往していたようなものである。

それまで当然のように与党に君臨していた自民党が政権の座を降り、細川、羽田、村山と非自民内閣が続く。1996年1月に橋本政権が誕生したものの、自民・社会・さきがけの連立内閣だった。それまでの自民与党当然体制が崩れて変化したことのひとつに法案成立のプロセスがあった。それまでは官僚主導で利害関係の調整が行われ綿密な根回しの上に法案が国会に諮られるというものだった。国会に過半数を占める政党がなくなると、そうした従前の力関係を基にした仕組みが機能しなくなったのである。より具体的には、議員立法による法律が以前よりも容易に成立するようになったということだ。

産業界がこの機会を見逃すはずはなかった。こうしたなかで、私もある法案作成のための調査活動に駆り出されることになったのである。何もかも初めてのことばかりで暗中模索の日々だったが、今から思えば貴重な経験だった。そのときの法案は最終的にはある団体によってまとめられ、思惑通りというわけにはいかなかったが、なんとか成立して多くの人々がその恩恵にあずかっている。しかし、当時目指した本当の目標は未だに達成される気配すら感じられない。

余談になるが、この調査の一環で米国に出かけたとき、ロバート・マクナマラ氏にお目にかかった。米国商務省で事前に設定した会談があり、たまたま所用でお見えになっていたマクナマラ氏を相手方の人たちが私たちに紹介してくださったのである。私はある人の鞄持ちのようなものだったので、通り一遍の挨拶をさせて頂いただけだが、世界を動かすほどの権力を持った人は79歳になっても矍鑠としていて恰好良かった。

当時もけっこう混乱した世の中だったが、それでも今と比べれば牧歌的な時代だった。業績が悪いからといって突然解雇されるようなことも無かったし、社会全体にバブルの華やかなりし頃の残影があり、どこか希望も残っていたように思う。小室氏の楽曲も、そうした残り香のひとつだったような気がする。今、世界同時不況と呼ばれるなかにあっての氏の逮捕である。なにか巡り会わせのようなものも感じられる。