熊本熊的日常

日常生活についての雑記

文明

2008年11月16日 | Weblog
昔、初めてこの国に来た時、鉄道の駅に改札がないのを見て感心した。当時、ドイツのアウグスブルクという町で通算4ヶ月間ほど独居老人宅に居候をさせてもらったり、欧州のあちらこちらを旅行したのだが、どの国も同じようなもので、地下鉄にさえ改札がなく、バスや市電も乗り降り自由というところもあった。いちいち確かめなくとも、人間たるもの規則を守るのは当然、という思想が背後にあるような気がして、これぞ文明だと感心したのである。

今、ロンドンでは多くの駅に自動改札機が設置されている。街中至る所に監視カメラが設置されているのは既に有名である。日々の暮らしの基盤となる考え方が性善説から性悪説に転換してしまったようだ。文明は結局滅びてしまうものなのだろうか。

実生活の感覚として、守られなければ秩序が維持できない規則と、問題が生じた時にのみ参照するべき規則というものがあるように思う。敢えて例を挙げることはしないが、何が何でも規則は守られなければならない、というのでは実際の生活が円滑に進まないというのは感覚として理解できるだろう。また、規則違反者の取り締まりを徹底するための社会的コストと、違反者をある程度放置することによる社会的コストとのバランスも考慮する必要があるだろう。巨額の費用を投じないと公序良俗を守ることができない状況にあるということは、その社会がもはや人間の暮らしに耐える器ではなくなってしまっているということだ。

最近、日本で大麻の所持で逮捕・起訴されるという事件が相次いでいるようだ。大麻が煙草に比べて健康への害が少ないのだから、その所持を禁止する法律のほうがおかしい、と主張する人もいる。確かに煙草が合法で大麻が違法であることの根拠が明確にされていないというのは事実だろう。英国では2004年から大麻の個人使用は事実上適法となっているし、似たような国は他にいくらでもあるようだ。同じ行為が国によって違法であったり適法であったりするということは、法の根拠に何か問題があるということだろう。しかし、悪法も法なり、ともいう。法のほうが間違っていて、自分の考えのほうが正しいというのなら、適法化へ向けて署名集めをするなり、国会議員にでもなって適法化へ向けた活動をするなり、堂々と行動したらよいのではないか。それが文明国の国民の姿勢というものだろう。逮捕されて涙する無様を晒すなら、おとなしく法に従うのが、やはり文明というものだ。