自分の表現したいことがあって、それが世間から受けられるか否かということには感心がないということだと、生活が成り立たない。表現活動とは別に生活のための活動が必要になる。多くの場合、生活のほうが主になり、表現は従になり、やがて顧みられることもなくなる。尤も、その生活のほうで名を揚げる人もいるから、人生はわからないものである。
存命中は評価されず、死後にその作品が脚光を浴びるという人もいる。それは、その人がそれだけ創造的であったということだろう。人は自分の経験を超えて物事を発想することはできないものである。経験や知識の組み合わせの妙によって、新しい考え方や表現を創造するのだが、習慣から逃れることのできない圧倒的大多数の人にはその価値が理解できないから、どのような分野であれ、後の世において天才と称される人は孤独な人生を送るものだ。
さて、昨日は久しぶりにTATE Modernを訪れた。無料で入場できる常設のコーナーを歩いてみて、究極の表現は無ということではないかと思った。例えば、ジャコメッティの作品を時系列で眺めれば、初期の作品はどこかブランクーシのような、シンプルな中に質感のあるものだ。それが、あの棒のような人物表現になる。本人は「見たままの姿」を造形しようとしていたのだそうだ。おそらく、彼がもっと長生きをして創作活動と続けていたら、棒のような像はますます細くなり、晩年の作品は土台だけ、というようなものに行きついたのではないかと思う。もし、人間に「本質」というものがあるとするなら、それは幻影のようなものではないだろうか。人は他者との関係のなかにおいてのみ「私」たりうるのである。
ルネ・マグリットの「Man with a newspaper」も無の表現だろう。この作家の場合はタイトルも作品の主要な一部である。同じ部屋の風景を4つ並べたもので、そのひとつだけに新聞を手にした男性が描かれている。不在の3つと男性のいる1つとを対比させることで、不在の日常性を表現しているように見えた。
ルーチョ・フォンタナの「Spatial Concept ‘Waitinig’」はカンバスを引き裂いただけの作品だ。これも、世間で芸術とか表現と呼ばれているものを極端に具象化したものだろう。切り裂かれたカンバスは、要するにそれを切り裂いた誰かの存在を表現しているのだろう。その誰かとは「私」なのである。「私」はそこに描かれているわけでもなく、描いているわけでもない。
死体や四肢、内蔵を連想させるようなものを取り上げた作品は多い。これも結局は、崩壊を描くことで、崩壊前の姿の存在とその消滅という「実在」を表現しようとしているのだろう。あるいは崩壊させるという行為をおこなった「私」を描いているのかもしれない。