子供の頃から博物館というものが大好きで、今でも旅行などで初めての街を訪れると、必ず博物館へ足を運ぶ。このブログでは美術館の話題のほうが多いのではないかと思うが、絵画や彫刻を好んで眺めるようになったのは40歳を過ぎたあたりからである。子供の頃も今でも、最も好きなのは秋葉原にあった交通博物館だ。大宮に移転してからは訪れる機会に恵まれていないのだが、帰国したら是非行ってみたいと思っている。
海外では戦争関係の博物館を訪れる機会もあるが、自分が当事者であったわけでもないのに、どこか敗戦国の国民として、居心地の悪さのようなものを感じることがないわけでもない。キャンベラの戦争博物館を訪れた時には、日本軍によるダーウィン爆撃のテレビ映像がエンドレスで流されていた。それを眺めていた時、前にいた子供が振り返って私の顔を見上げた。ただ、「あ、この人日本人だ」という好奇のまなざしを感じただけで、そこに嫌悪とか敵意のようなものは感じなかったのだが、その時の、えも言われぬ感覚はいまだに拭い去ることができない。シンガポールには日本による占領時代を説明したものがあって、やはり多少は後ろめたいものを感じた。
今日は空軍博物館(Royal Air Force Museum)に出かけてきた。英国の博物館の特徴として、実物をふんだんに展示するという手法があるように思う。ヨークの鉄道博物館もそうだし、大英博物館もそうだ。この空軍博物館は、展示されているのが航空機で、それが空軍の草創期から現在に至るまでを網羅しているのだから、その規模の大きさが並外れている。あまり予備知識もなく出かけてみたのだが、これほど大規模なものだとは想像していなかった。
昨日も書いたが、英国には「世界初」が多い。軍事技術などは、ただでさえ、その時々の最先端のものが投入されるのだからなおさらである。実戦で長く使われたものもあれば、プロトタイプで終わってしまったものもある。その違いは、運もあるだろうが、経済性も含めた使い勝手の善し悪しにあるように思う。英国製の機体で最も広く使われたのはSpitfireではないだろうか。しかし、第二次世界大戦後は英国の航空機企業は次々に姿を消し、現在はBAEシステムズに統合されている。技術の高度化に伴って開発費用や製造費用も上昇しているため、航空機産業は民間企業が単独で事業を行うことのできるものではなくなってしまった。結果として、米露のような超大国だけがこの産業を継続することになったが、それとても、同盟関係諸国との開発分担や製造分担に拠っている。
費用が巨大化するのは軍事産業に限ったことではない。製造業も金融業も小売業も同じことである。市場経済という基盤の上では、一事が万事全てというわけではないが、より多額の投資をして質量ともに高水準の経営資源を投入したほうが、提供する製品やサービスの競争力は向上する確率が高くなる。競争力の向上とは必ずしも生産物の性能だけではない。経営の規模拡大によって単位あたりの固定費が低下することも価格引き下げ余力となり、競争力を向上させる。
しかし、資本の集中が進行すれば、製品やサービスの画一化も進む。それが消費者の購買意欲を削ぐことになり、需要の低迷をもたらし、更なる資本の集中を促進する。典型的な例としては各種家電製品、パソコン、携帯電話、デジタルカメラなどを挙げることができる。以前は高額商品だったが今ではコモディティだ。当然、生産者の淘汰も進み、実体としては最盛期の半分以下の市場参加者になっているのではなかろうか。単価は高いが、自動車も傾向としては同じような流れのなかにある商品だ。金融業も同じだろう。私が社会人になった頃は都市銀行と呼ばれる全国展開をしている商業銀行が13行もあったし、証券業も「大手4社」と言われていた。今残っているのはどれほどか。小売店にしても、百貨店の統廃合に象徴される状況となっている。ちょっと前まで、三越と伊勢丹が合併するなど想像すらしていかなった。
一方で、巨大化することが強力化を意味しないという状況にもなっている。ベトナムで米軍がどうなったか、アフガニスタンでソ連軍がどうなったか、という事実は確認しておいたほうがよいだろう。湾岸戦争は結局どうなったか。武力制圧とそれに対抗するテロの連鎖がとどまるところを知らない。巨大化した金融機関は、生み出す損失も巨大化して呆気なく倒産したり公的資金のお世話になったりしているが、この暴落相場で大儲けをしているファンドもあるはずだ。百貨店の売上が減少を続けていても、ユニクロは増収増益だ。
要するに、ゲームというのはルールを共有していなければ成り立たないのである。昔、モハメット・アリとアントニオ猪木が試合をしたことがあった。あの試合が象徴しているようなことが、国と国の間や、企業と企業の間に広がっているのが今の時代であるように思う。巨大だからといって安心することもできないし、弱小だからといって悲観することもない。自分でルールを作ってしまえば、選択肢は無限にあるということだ。
話はいつものように脱線してしまったが、書こうと思ったのは、英国まで来ると、アジアや環太平洋地域とは違って、先の大戦での日本の影が薄いので、比較的安穏と博物館の展示を眺めていることができる、ということだけだ。