熊本熊的日常

日常生活についての雑記

モリスのこと

2008年12月29日 | Weblog

昨日は、午前中にEwellを訪れた後、ロンドン市街へ向かう電車をVauxhallで降り、地下鉄Victoria Lineに乗り換えて、その終点Wallthamstow Centralまで行った。駅から10分ほど歩いたところにウィリアム・モリスが幼年時代を過ごした家がある。彼の父親は金融業界で働いており、投資で大きな利益を得たのだそうだ。この家はいかにも成功した中産階級然とした大きなものだ。現在はWilliam Morris Galleryとして公開されているが、今はクリスマス休暇中である。

ウィリアム・モリスは芸術と労働の一致を理想とした社会思想家という面も持っている。産業革命を経て、効率化、利益の極大化を指向した社会のなかで、分業という労働のありかたが広まり、ひとつひとつの労働作業に意義を見出しにくい状況、所謂「人間疎外」ということが問題になっていた。モリスは働くことを楽しいと感じるには、1人の人間が仕事の全ての工程を意識できるようにするべきだと考えていたという。いわば中世のもの作りの姿に回帰するかのような思想だ。それを具体化したのが、「アート・アンド・クラフツ運動」である。

現実は、なかなかそのようにはいかない。ひとつには、世界が市場原理の下にあるということがある。生活に必要な財やサービスは、全て貨幣価値で表示され、原則として貨幣を媒介にして取引される。価値というものが数字に転換されてしまうと、その背後にあるものが見えなくなってしまうように思う。その数字が何を根拠にしているのかということを考えず、闇雲に数字を大きくすることを目指すのが、我々の置かれている現実であるような気がする。

そこに権威という概念が生まれる。先日、米国で被害総額500億ドルというねずみ講が摘発されたが、その被害者は名立たる投資家たちである。一度名声を確立し、それが世間に定着すれば、人々は何の考えもなく、その権威に寄りかかろうとするものなのである。12月23日に自殺した被害者は、先祖の名前がパリの凱旋門に刻まれているほどの名家の出身だったそうだが、14億ドルという彼の被害金額を苦にしたのではなく、考えるという人としての基本を怠った己の不明を恥じたのではないだろうか。

モリスの思想は、自分で生きるという実感を持つことができるような生活を目指す、ということではないかと思う。生活のなかのひとつひとつの要素、家事や仕事や育児その他諸々のことを、自分で考え、そこに自分の意志を表現するということではないか。モリス個人は、昨日も書いたように、自分の家庭生活には必ずしも恵まれなかった。しかし、完全とか完璧というものから無縁であるのが、人間というものでもある。

市場原理と個人の価値観とは、やはりどこかで対立することにもなるだろう。ただ、一個人の立場からすれば、自己の表現というのは、それほど困難なことではないように思われる。徹底するということではなく、与えられた条件のなかで工夫できる範囲内で、自分の考えというものをひとつひとつの自分の行動に表現するだけのことで、生きることの喜びというものを感じることができるのではないかと思うのである。恐らく、その実現を阻害する最大の要因は、自分自身のなかにある権威だろう。