熊本熊的日常

日常生活についての雑記

決定的瞬間

2008年12月14日 | Weblog
よくVictoria and Albert Museumに出かけるのだが、出かける度にその隣にある自然史博物館(The Natural History Museum)の建物が気になっていた。それで今日は自然史博物館のほうを訪れてみた。

12月11日付「大英博物館にて」に書いたように、ここは大英博物館の分館として設立された博物館である。大英博物館と同様に入場無料だが、有料の企画展も開催されている。今日は「Wildlife Photographer of the Year 2008」と「Darwin Big Idea Big Exhibition」が開かれており、両方とも観てきた。

写真は自分では殆ど撮らないのだが、観るのは好きだ。日本に持ち帰るべく買い込んだ書籍のなかにも写真集がいくつかある。

夏にパリに遊びに行った時、偶然にポンピドーセンターで開催されていたMiroslav Tichy展のカタログ。この人の写真は美しいとか醜いというレベルを超越したものだ。情熱とか執念とか、自分の内部から湧き上がるものを、たまたま写真という形で表現した、というべきものだ。「表現」などという生易しいものではない。たまたま彼の写真を評価する人がいたから、ポンピドーセンターで企画展が開催されるほど高名になったが、その無数の「たまたま」のひとつでも欠けていれば、ただの変態ジジイだ。今、意図的に「たまたま」という語彙を多用した。とにかく彼の「作品」を見れば、その意図を理解してもらえると思う。しかし、おもしろい写真だと思う。手作りのカメラで撮影するというのもよい。完成された不完全、とでも呼びたい作品群だ。

‘The Great LIFE Photographeres’は写真誌’LIFE’の総集編のようなものだ。写真というのは、我々が目にしている光景を切り取ったものであるはずだが、絵になる瞬間を集めてみれば、我々の生きている場がいかに劇的なものであるかということに気付かされる。もちろん、LIFEに掲載される写真は、それが「事件」の現場を撮影したものなのだから、劇的であるのは当然なのだが、被写体の多くは市井の人々である。戦争や騒乱も、決して特殊なことではないだろう。今この瞬間においても、世界のどこかで何かしらの事件が起っているのである。

‘Martin Parr’の写真集は是非一冊欲しいと思っていた。この人の写真は’LIFE’に掲載される種類のものではない。皮肉で、どこか人を食ったところがあり、でも憎めない茶目っ気がある。身近にこういう視線を持った人がいれば、たぶん、不愉快に思うだろう。しかし、距離を置いて眺めれば、人間の行動の滑稽さを巧みに捉えていると思える。感嘆に値するほど面白い写真が満載である。

そして今日の’Wildlife’だが、これは美しいとしか言いようがない。ネイチャーフォトと呼ばれる分野の写真展入選作を集めた展覧会である。当然のことだが、自然の風景というのは撮影者の思い通りにはならない。撮影しようとする対象の生態系や生活史を研究し、狙いを定めて、思い描いた風景が現れるのをひたすら待つのである。一枚の写真が表現する息を飲むような美しさは、そうした入念な準備と幸運の賜物なのである。しかし、そうした段取りが透けて見えてしまっては、なんとなく浅ましい写真になってしまうものである。胸を打つ一瞬は、いつまで待っても訪れないかもしれない。だからこそ、その一瞬に出会った時の驚きと喜びが大きく、忘我の境地になる。我を忘れてシャッターを切った時に、この世の物とも思えない美しい一瞬が写っている、と思いたい。今回の展覧会で興味深かったのは、子供たちが撮影したものである。やはり成人の部に比べればテクニックの欠如や準備不足・知識不足の感は否めないのだが、素直な感動が伝わってくるという点では成人の部を超えていると感じられるものもあった。特に気に入ったのは、10歳以下の部で佳作(Highly Commended)に選ばれていた’Treetop jigsaw’という作品だ。これは熱帯雨林の森のなかで、木々を見上げて撮ったものである。木漏れ日が逆光になり、モノクロのような絵になっている。その光と陰のコントラストを通じて森の深さや木々が描き出されており、森のなかで感じる不安とか森の大きさといった撮影者の心象も見事に表現されていると思った。10歳以下の部の入選作’Snow pose’もよかった。雪の中を行くキツネが立ち止まって振り返っているところを撮影している。雪に覆われた野に残るキツネの足跡、その雪にかかる木の影が、どこか虚無的だ。そこにキツネの振り返った姿があることで、画面に緊張感が生まれている。素晴らしい作品だ。

写真は撮影する人によって同じ風景が全く違ったものに加工される。それが人生の何事かを象徴しているようで面白い。ある瞬間の捉え方が、その人の人生を決定しているような気さえする。