今日は内見客を迎えた。ロシア人の男性だ。午後7時の予定だったが、6時半頃にやって来た。関心の所在は誰でも同じらしく、想定の範囲内の質問ばかりだった。彼が気にしていたのは浴室のシャワーの水圧だった。私も彼に言われて初めて気がついたのだが、シャワーヘッドを高い場所に持ち上げると、水が出なくなってしまう。普段、浴槽のなかで座った状態で使用しているので、全くに気にならなかった。彼は浴槽のなかで立った状態でシャワーを利用するつもりらしい。それはやめておいたほうがよいのではないかと思うのだが、余計なことは言わないことにした。
なぜ、ロシア人だとわかったかというと、内見中に彼の携帯に電話があり、その会話を聞いていたら「ニェット」とか「ダー」とか言っていたので、「ロシア人かい?」と尋ねてみたのである。彼は私に「中国人?」と尋ねた。リビングの書棚に「China」という大きな本があったので、そう思ったのだそうだ。
「China」は1949年から2008年までを対象とした中国の写真集である。文字通り中国という国を西洋に紹介する内容で、英仏独の3カ国語の文章が添えられている。1976年に毛沢東が亡くなるまで、中国は毛沢東の国だったかのような印象を受ける。公式行事といえば、人々は手に手に赤い表紙の毛沢東語録を持って集まり、学芸会のようなことをする。資本家や資本家的発想は悪であり、生活は毛主席の中国共産党にお任せするのが正しい生き方であるかのような雰囲気を感じる。それが毛沢東の死後、様相が一変するのである。共産党にお任せのはずが、「自由」を求める旨のことが書かれたプラカードを掲げた人々の写真があったり、毛沢東路線の継承者であったはずの人たちが裁判の被告になっている写真があったり、一見してこの国が迷走状態に入ったかのような印象になる。そのクライマックスが天安門事件だろう。この後、中国は急速に世界経済のなかに組み込まれていく。そして現在に至るのである。
中国は世界で最も古い歴史を持つ地域であるが、そこに興った国は古代から20世紀に滅亡する清に至るまで王制国家である。1949年に建国された中華人民共和国も共産党王朝のような様相があったように思う。共産党政府というより、特定の個人による支配体制として共産党という組織が存在していた、というほうが現実の姿を言い当てているのではないかとさえ思う。それが、市場メカニズムに組み込まれることによって、特定の個人を崇拝するという国家のありようが変容している。
中華人民共和国の国家元首は「国家主席」というものだが、1975年から1982年までは名実とも廃止されている。現在は復活しているものの、毛沢東が主席であった時代のそれとは違って儀礼的権限しかなく、その権威の裏付けとなっているのは共産党総書記という共産党内部での地位に拠るところが大きい。
明確に特定の権威に依存する国家体制というのは、それだけ一般国民の生活が厳しいという現実を表現しているように思う。国家という権威の存在感が低下するということは、それだけ国民個人の経済力が向上しているということだろう。自分で立って歩くことができれば、寄りかかるものを必要としないものだ。人類の歴史というのは、結局のところ、ひとりひとりが自立して生きることができる世の中を目指すという方向性のなかで展開されてきたとも言えるだろう。無力の時には、王を求め、神を求める。文明の発展に伴って、世の中の道理というものが特定の存在の恣意によるものではなく、ある種のメカニズムのなかで機能しているということが明らかになり、人々は王や神ではなく、そのメカニズムに関心を向けるようになる。それとともに、単なる権威ではなく、自己の利益に結びつく具体的な権威を求めるようになる。あらゆるものが市場というメカニズムのなかで取引される時代にあっては、その具体的な権威は経済力だろう。国家権力は信用の裏付けという意味において権力たりうるのである。「億万長者」という時の「億万」に実質的な意味を与えるのが国家権力ということだ。
そうした現在という場において、権力に求められている能力は、経済力の背後にある市場メカニズムを円滑に機能させる調整能力だ。つまり、市場というものへの深い理解と洞察だ。これがないと国家あるいはその象徴たる通貨は信用を失うことになる。これは株価にもあてはまるかもしれない。会社というのは利益追求を目的とする集団、と定義されている。自社の事業に対する深い理解と洞察がないと見なされた企業は市場から排除される、と言えるのではないだろうか。今、世界経済が混乱しているように見えるが、株式市場も外国為替市場もそうした根っこのところから眺めてみれば、少し違った風景が見えるかもしれない。
もちろん「China」を買ったのはそんなことを考えてのことではなく、単にそこに掲載されている写真が面白かったからである。
なぜ、ロシア人だとわかったかというと、内見中に彼の携帯に電話があり、その会話を聞いていたら「ニェット」とか「ダー」とか言っていたので、「ロシア人かい?」と尋ねてみたのである。彼は私に「中国人?」と尋ねた。リビングの書棚に「China」という大きな本があったので、そう思ったのだそうだ。
「China」は1949年から2008年までを対象とした中国の写真集である。文字通り中国という国を西洋に紹介する内容で、英仏独の3カ国語の文章が添えられている。1976年に毛沢東が亡くなるまで、中国は毛沢東の国だったかのような印象を受ける。公式行事といえば、人々は手に手に赤い表紙の毛沢東語録を持って集まり、学芸会のようなことをする。資本家や資本家的発想は悪であり、生活は毛主席の中国共産党にお任せするのが正しい生き方であるかのような雰囲気を感じる。それが毛沢東の死後、様相が一変するのである。共産党にお任せのはずが、「自由」を求める旨のことが書かれたプラカードを掲げた人々の写真があったり、毛沢東路線の継承者であったはずの人たちが裁判の被告になっている写真があったり、一見してこの国が迷走状態に入ったかのような印象になる。そのクライマックスが天安門事件だろう。この後、中国は急速に世界経済のなかに組み込まれていく。そして現在に至るのである。
中国は世界で最も古い歴史を持つ地域であるが、そこに興った国は古代から20世紀に滅亡する清に至るまで王制国家である。1949年に建国された中華人民共和国も共産党王朝のような様相があったように思う。共産党政府というより、特定の個人による支配体制として共産党という組織が存在していた、というほうが現実の姿を言い当てているのではないかとさえ思う。それが、市場メカニズムに組み込まれることによって、特定の個人を崇拝するという国家のありようが変容している。
中華人民共和国の国家元首は「国家主席」というものだが、1975年から1982年までは名実とも廃止されている。現在は復活しているものの、毛沢東が主席であった時代のそれとは違って儀礼的権限しかなく、その権威の裏付けとなっているのは共産党総書記という共産党内部での地位に拠るところが大きい。
明確に特定の権威に依存する国家体制というのは、それだけ一般国民の生活が厳しいという現実を表現しているように思う。国家という権威の存在感が低下するということは、それだけ国民個人の経済力が向上しているということだろう。自分で立って歩くことができれば、寄りかかるものを必要としないものだ。人類の歴史というのは、結局のところ、ひとりひとりが自立して生きることができる世の中を目指すという方向性のなかで展開されてきたとも言えるだろう。無力の時には、王を求め、神を求める。文明の発展に伴って、世の中の道理というものが特定の存在の恣意によるものではなく、ある種のメカニズムのなかで機能しているということが明らかになり、人々は王や神ではなく、そのメカニズムに関心を向けるようになる。それとともに、単なる権威ではなく、自己の利益に結びつく具体的な権威を求めるようになる。あらゆるものが市場というメカニズムのなかで取引される時代にあっては、その具体的な権威は経済力だろう。国家権力は信用の裏付けという意味において権力たりうるのである。「億万長者」という時の「億万」に実質的な意味を与えるのが国家権力ということだ。
そうした現在という場において、権力に求められている能力は、経済力の背後にある市場メカニズムを円滑に機能させる調整能力だ。つまり、市場というものへの深い理解と洞察だ。これがないと国家あるいはその象徴たる通貨は信用を失うことになる。これは株価にもあてはまるかもしれない。会社というのは利益追求を目的とする集団、と定義されている。自社の事業に対する深い理解と洞察がないと見なされた企業は市場から排除される、と言えるのではないだろうか。今、世界経済が混乱しているように見えるが、株式市場も外国為替市場もそうした根っこのところから眺めてみれば、少し違った風景が見えるかもしれない。
もちろん「China」を買ったのはそんなことを考えてのことではなく、単にそこに掲載されている写真が面白かったからである。