大英博物館は木曜と金曜が夜間開館日である。他の博物館や美術館と同様に、夜間開館といっても入場できる展示室は限られている。しかし売店は必ず開いている。ここを閉めたら開館する意味はない。どこの国の博物館・美術館も収益確保は最大の経営課題である。
誰が「大英博物館」という訳語を考えたのか知らないが、上手い訳語をあてたものだと感心する。パリのルーブル美術館が王室の蒐集品を基に設立されたのに対し、大英博物館はSir Hans Sloane (1660-1753)という医師であり博物学者であった人の個人的な蒐集品から始まっている。「個人的な蒐集品」とはいえ、約71,000点に及ぶ品物に加えて蔵書と植物標本が国に遺贈されたのである。時の国王ジョージ2世は、この遺産には興味がなかったらしい。しかし、議会からの熱心な働きかけに動かされて遺贈を受領することにしたという。この時、議会は宝くじの収益金を使って、この遺贈品を収蔵・展示する博物館を設立することを決めたのだそうだ。以降、主に個人からの寄贈品が数多く寄せられ、今日の姿になったという。但し、19世紀に、自然史分野のものをまとめて自然史博物館(The Natural History Museum 但し1992年にthe Museum and Galleries Act of 1992が施行される以前はThe British Museum (Natural History))として分館、20世紀に図書部門をロンドン市内の他の国立図書館と統合して大英図書館(The British Library)としている。個人の収蔵品をまとめてみたら、これほどの豊かな博物館や図書館になったというのだから、英国の繁栄というのは想像を絶するほどのものだったのである。原語はThe British Museumだが「大」を加えることで、その強い個性と存在感が的確に表現できているように思う。
さて、今日も博物館内の書店で1時間ほど立ち読みに耽る。今日のお題は陶芸。欧州には日本でも有名な陶器ブランドが多い。英国のウエッジウッドやロイヤルドルトン、デンマークのロイヤル・コペンハーゲン、フランスのセーブルやリモージュ、ドイツのマイセン、イタリアのリチャード・ジノリ、ハンガリーのヘレンドなど枚挙に暇がない。確かにどのブランドも洗練された品格の高さがあり、眺めてよし、使ってよし、という感じがする。残念ながら使う機会に恵まれないので「感じ」としか書きようがないのが少し寂しいところではある。しかし、負け惜しみではないが、こうしたブランド品にはあまり興味はない。
何故興味が湧かないのか、買えないという経済的事情を別にして、自分でもよくわからない。ただ、ひとつの器として作陶技術や表現そのものが完璧なまでに完結されていて、そこに私個人が入り込む余地が無いように感じられるのである。陶器は周知の通り、土をこね、形をつくり、素焼きをし、施釉をし、本焼きをするという工程を経て完成する。この焼成というのが陶芸の「芸」としての特異性なのである。素焼きでは800度前後、本焼きでは1,200度前後の熱に作品を晒す。窯のなかにある作品をいじることはできない。絵画にしても彫刻にしても、作者の手の及ばないところを経ないと作品が完成しないということはない。陶芸だけが、運を天に任せる工程を経て完成されるのである。つまり、本来的に完璧ではあり得ないということだ。1,200度の熱のなかで何が起こっているかなど、誰にもわからないのである。そいう自分の手におえない部分があるからこそ、作陶に人知を超えたものを感じ、作品に神性ともいえる味わいが出るのである。ところが、西洋の陶器は、そうしたことを見て見ぬ振りをするかのように、あくまで完成度の高さに価値を置く。私はそこに納得がいかないのである。
私が陶器に興味を持つようになって、まだ2年ほどしか経っていない。せっかく欧州の片隅で暮らしているのだから、この機会に少し勉強でもしておこうと思い、こうして書物を物色している。今日は、ユーラシア大陸のなかの陶器の地理的・歴史的流れのようなものを概観した本と、英国のウースターについてまとめた本を購入した。
誰が「大英博物館」という訳語を考えたのか知らないが、上手い訳語をあてたものだと感心する。パリのルーブル美術館が王室の蒐集品を基に設立されたのに対し、大英博物館はSir Hans Sloane (1660-1753)という医師であり博物学者であった人の個人的な蒐集品から始まっている。「個人的な蒐集品」とはいえ、約71,000点に及ぶ品物に加えて蔵書と植物標本が国に遺贈されたのである。時の国王ジョージ2世は、この遺産には興味がなかったらしい。しかし、議会からの熱心な働きかけに動かされて遺贈を受領することにしたという。この時、議会は宝くじの収益金を使って、この遺贈品を収蔵・展示する博物館を設立することを決めたのだそうだ。以降、主に個人からの寄贈品が数多く寄せられ、今日の姿になったという。但し、19世紀に、自然史分野のものをまとめて自然史博物館(The Natural History Museum 但し1992年にthe Museum and Galleries Act of 1992が施行される以前はThe British Museum (Natural History))として分館、20世紀に図書部門をロンドン市内の他の国立図書館と統合して大英図書館(The British Library)としている。個人の収蔵品をまとめてみたら、これほどの豊かな博物館や図書館になったというのだから、英国の繁栄というのは想像を絶するほどのものだったのである。原語はThe British Museumだが「大」を加えることで、その強い個性と存在感が的確に表現できているように思う。
さて、今日も博物館内の書店で1時間ほど立ち読みに耽る。今日のお題は陶芸。欧州には日本でも有名な陶器ブランドが多い。英国のウエッジウッドやロイヤルドルトン、デンマークのロイヤル・コペンハーゲン、フランスのセーブルやリモージュ、ドイツのマイセン、イタリアのリチャード・ジノリ、ハンガリーのヘレンドなど枚挙に暇がない。確かにどのブランドも洗練された品格の高さがあり、眺めてよし、使ってよし、という感じがする。残念ながら使う機会に恵まれないので「感じ」としか書きようがないのが少し寂しいところではある。しかし、負け惜しみではないが、こうしたブランド品にはあまり興味はない。
何故興味が湧かないのか、買えないという経済的事情を別にして、自分でもよくわからない。ただ、ひとつの器として作陶技術や表現そのものが完璧なまでに完結されていて、そこに私個人が入り込む余地が無いように感じられるのである。陶器は周知の通り、土をこね、形をつくり、素焼きをし、施釉をし、本焼きをするという工程を経て完成する。この焼成というのが陶芸の「芸」としての特異性なのである。素焼きでは800度前後、本焼きでは1,200度前後の熱に作品を晒す。窯のなかにある作品をいじることはできない。絵画にしても彫刻にしても、作者の手の及ばないところを経ないと作品が完成しないということはない。陶芸だけが、運を天に任せる工程を経て完成されるのである。つまり、本来的に完璧ではあり得ないということだ。1,200度の熱のなかで何が起こっているかなど、誰にもわからないのである。そいう自分の手におえない部分があるからこそ、作陶に人知を超えたものを感じ、作品に神性ともいえる味わいが出るのである。ところが、西洋の陶器は、そうしたことを見て見ぬ振りをするかのように、あくまで完成度の高さに価値を置く。私はそこに納得がいかないのである。
私が陶器に興味を持つようになって、まだ2年ほどしか経っていない。せっかく欧州の片隅で暮らしているのだから、この機会に少し勉強でもしておこうと思い、こうして書物を物色している。今日は、ユーラシア大陸のなかの陶器の地理的・歴史的流れのようなものを概観した本と、英国のウースターについてまとめた本を購入した。