紙漉職人である川原隆邦氏のお話を聴く会に参加した。川原氏は富山県の蛭谷和紙を漉く唯一の職人だ。平成21年度の日本民藝館日本民藝協会賞を受賞するほどの腕前なのだが、現在休業しているのだという。正確には休業を余儀なくされている。川原氏のことは今回のワークショップの案内を頂くまで知らなかったのだが、ネットで検索するといろいろなところに取り上げられている。それでも、多くの人が注目した和紙職人は需要不足を理由に休業せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。そして、その状況を打開するべく、和紙という伝統工芸が置かれている危機的状況を語り歩いているのである。
「和紙」という言葉には明確な定義が無い。一般的には木の繊維で作る紙が和紙で、パルプをシート状に固めたものが洋紙というふうに使い分けられているようだ。物質の構造が違うので、そこにインクや墨を置いたときに、浸透の仕方に自ずと違いが出る。つまり、書いたり描いたりしたものの印象が紙によって違うということだ。それで、例えば版画や絵画の用紙として、海外でも和紙を好む作家が少なくないそうだ。有名どころを列挙してもレンブラント、ゴッホ、ピカソ、ダリといった作家たちが日本の和紙を愛用していたというのである。
和紙には独特の風合いがあり、手紙や葉書を書くのが好きな人たちの間では和紙の用紙に人気があるという。私も今年の暑中見舞い葉書を日本橋の小津和紙で調達したという話をこのブログに書いた。私の場合は悪筆なので、いくら紙に金をかけたところで、そこに込めた気合のようなものが相手に伝わることは稀だ。気持ちを込めるということを具体的に表現しようとすれば結果として費用と手間隙がかかるものなのである。自分がやりたいことがあれば、できる範囲で最大限に無理をする。それが自分なりの表現だと思っている。私のことはともかく、その小津和紙には何度も足を運んだが、そこにしばしば熱心に品物選びをする外国人の姿を目の当たりにする。何気なく近くに寄って、店員とのやり取りを聞いているのだが、印象としてはフランス語を話す人が多い。長い歴史と文化を持った民族どうしで美意識のなかに相通じるものがあるのだろうか。
歴史的に和紙は貴重品であった時代が長いのだが、その製法や材料は至ってシンプルだ。原材料は楮とか三椏といった木の樹皮を使うことが多いようだが、繊維があればよいので木なら何でも紙になるはずだ。事実、東南アジアやインドでは木の繊維を水に溶いたものを乾燥させただけの紙が多く作られていたという。楮は日本のどこの山にも自生していた木であり、海外でもよくあるそうだ。和紙の品質の高さをもたらすひとつの要が木の繊維をトロロアオイと混ぜて均質化させるという工程にあるのだそうだ。トロロアオイの根をつぶして水に浸けておくと水がゲル状になる。このゲルに木の繊維を溶くことで繊維が均等に分散するのだという。これで斑のない均等の厚さの紙になる。トロロアオイも日本の至るところに自生していた。道具類に特殊なものはなく、強いて挙げれば紙漉きに使う竹籤を編んだ簾のようなものが高価で、菊版と呼ばれる大きさのもので国産品が40万円程度、中国産でも5万円ほどだという。
川原氏は楮やトロロアオイの栽培から紙漉きまで、和紙の制作にかかわる全ての作業をひとりでこなすのである。それは1年中休みがないということでもある。そうやって生活のすべてを費やして作ったものに需要が無いのだという。これでは仕事にはならない。休業するのは当然のことなのである。
今、日本の伝統工芸は技能保持者の高齢化と後継者難という課題を抱えている。高齢化自体は火急の課題というわけではない。むしろ、高齢化によって技能保持者が生産物の販売に依存せず年金で暮らしを立てることができるという点で、技能の保存の時間稼ぎには都合が良いとさえ言える。川原氏は1981年生まれだ。彼の場合は作った和紙が売れなければ生活ができない。
何故、かつて和紙が当たり前のように作られていたのに、現在は作り手がいなくなってしまったのか。何故、かつて和紙作りを支えていた需要があったのに、今はなくなってしまったのか。大雑把な言い方をすれば、和紙よりも安い代替物が大量に流通しているからである。具体的には建材や手紙の用紙などの領域に顕著に見られることである。
かつての日本の家屋は「木と紙でできている」と形容されたものだ。襖の紙、障子紙、土壁の表面に薄い和紙が貼られることも少なくなかった。茶室には今でも和紙で腰張が施されている。しかし、今、和紙が建材に使われている家はどれほどあるだろうか。襖紙や障子紙も和紙の風合いを持った別の紙であることのほうが多いだろうし、そもそも襖や障子のある和室がある家が少なくなっている。手紙に至っては、一人年間何通書くだろうか。書いたことがないという人のほうが多いのではないだろうか。
生活様式が変化するということは、人々の生活観が変るということでもある。今月から年賀状の販売が始まったが、年賀状はもともと年賀の挨拶を欠礼する代用として使われたものだ。今でも正月に帰省する人は少なくないだろうが、かつての日本では事有る毎に他人様のお宅を訪れたものだ。だから、どこの家でも茶と茶菓子を常備し、常日頃から掃除や整理整頓を心がけ、いつでも客を迎えることができるようにしていたものなのである。年末の大掃除も、一年の穢れを祓うという精神的な意味合いと同時に、年始客を気持ちよく迎えようというもてなしの心の表現でもあった。それが、時代とともに挨拶が簡略化され、直接訪問せずに賀状で代用し、賀状が年賀葉書になり、メールになり、携帯で「あけおめ」になり、やがて無くなるのだろう。街行く人を見ていると、携帯端末で電話やメールをしている姿が目立つが、それは他人とつながっているからではなく、そういう「つながっているつもり」になっていないと不安でどうしようもないほど深い孤独に陥っているということではないのだろうか。精神疾患の罹患者が増えているのは、それまで病気とは看做されなかったことが病気であることにされるようになったという所為もあるだろうが、平均的な人間関係が健康な精神を維持できないほどに薄く狭くなっているという事情のほうが大きいのではないか。
伝統工芸を守ろうと立ち上がった青年が、その技能の優秀さを各界から証明されているにもかかわらず、作ったものに需要が無いとして仕事を諦めざるを得ない状況が語っていることは、彼の仕事の危機ではなく、我々の社会全体が存亡の危機に瀕しているということではないだろうか。
その社会で生きている一人として、私は何かをしたい。何ができるかわからないが、少なくとも自分の周りの人間関係はきちんと築き上げたい。ひとりひとりが同じようなことを考えるようになれば、世の中は微動くらいするのではないだろうか。暑中見舞いの反応があまりに悪いので、年賀状はやめようかと思っていたが、ここは辛抱強く和紙のはがきに手書きで一生懸命書くことに決めた。ずっと続けて、死ぬまでにひとりでもいいから、話の通じる人と出会えれば、それで良しとすることにする。
「和紙」という言葉には明確な定義が無い。一般的には木の繊維で作る紙が和紙で、パルプをシート状に固めたものが洋紙というふうに使い分けられているようだ。物質の構造が違うので、そこにインクや墨を置いたときに、浸透の仕方に自ずと違いが出る。つまり、書いたり描いたりしたものの印象が紙によって違うということだ。それで、例えば版画や絵画の用紙として、海外でも和紙を好む作家が少なくないそうだ。有名どころを列挙してもレンブラント、ゴッホ、ピカソ、ダリといった作家たちが日本の和紙を愛用していたというのである。
和紙には独特の風合いがあり、手紙や葉書を書くのが好きな人たちの間では和紙の用紙に人気があるという。私も今年の暑中見舞い葉書を日本橋の小津和紙で調達したという話をこのブログに書いた。私の場合は悪筆なので、いくら紙に金をかけたところで、そこに込めた気合のようなものが相手に伝わることは稀だ。気持ちを込めるということを具体的に表現しようとすれば結果として費用と手間隙がかかるものなのである。自分がやりたいことがあれば、できる範囲で最大限に無理をする。それが自分なりの表現だと思っている。私のことはともかく、その小津和紙には何度も足を運んだが、そこにしばしば熱心に品物選びをする外国人の姿を目の当たりにする。何気なく近くに寄って、店員とのやり取りを聞いているのだが、印象としてはフランス語を話す人が多い。長い歴史と文化を持った民族どうしで美意識のなかに相通じるものがあるのだろうか。
歴史的に和紙は貴重品であった時代が長いのだが、その製法や材料は至ってシンプルだ。原材料は楮とか三椏といった木の樹皮を使うことが多いようだが、繊維があればよいので木なら何でも紙になるはずだ。事実、東南アジアやインドでは木の繊維を水に溶いたものを乾燥させただけの紙が多く作られていたという。楮は日本のどこの山にも自生していた木であり、海外でもよくあるそうだ。和紙の品質の高さをもたらすひとつの要が木の繊維をトロロアオイと混ぜて均質化させるという工程にあるのだそうだ。トロロアオイの根をつぶして水に浸けておくと水がゲル状になる。このゲルに木の繊維を溶くことで繊維が均等に分散するのだという。これで斑のない均等の厚さの紙になる。トロロアオイも日本の至るところに自生していた。道具類に特殊なものはなく、強いて挙げれば紙漉きに使う竹籤を編んだ簾のようなものが高価で、菊版と呼ばれる大きさのもので国産品が40万円程度、中国産でも5万円ほどだという。
川原氏は楮やトロロアオイの栽培から紙漉きまで、和紙の制作にかかわる全ての作業をひとりでこなすのである。それは1年中休みがないということでもある。そうやって生活のすべてを費やして作ったものに需要が無いのだという。これでは仕事にはならない。休業するのは当然のことなのである。
今、日本の伝統工芸は技能保持者の高齢化と後継者難という課題を抱えている。高齢化自体は火急の課題というわけではない。むしろ、高齢化によって技能保持者が生産物の販売に依存せず年金で暮らしを立てることができるという点で、技能の保存の時間稼ぎには都合が良いとさえ言える。川原氏は1981年生まれだ。彼の場合は作った和紙が売れなければ生活ができない。
何故、かつて和紙が当たり前のように作られていたのに、現在は作り手がいなくなってしまったのか。何故、かつて和紙作りを支えていた需要があったのに、今はなくなってしまったのか。大雑把な言い方をすれば、和紙よりも安い代替物が大量に流通しているからである。具体的には建材や手紙の用紙などの領域に顕著に見られることである。
かつての日本の家屋は「木と紙でできている」と形容されたものだ。襖の紙、障子紙、土壁の表面に薄い和紙が貼られることも少なくなかった。茶室には今でも和紙で腰張が施されている。しかし、今、和紙が建材に使われている家はどれほどあるだろうか。襖紙や障子紙も和紙の風合いを持った別の紙であることのほうが多いだろうし、そもそも襖や障子のある和室がある家が少なくなっている。手紙に至っては、一人年間何通書くだろうか。書いたことがないという人のほうが多いのではないだろうか。
生活様式が変化するということは、人々の生活観が変るということでもある。今月から年賀状の販売が始まったが、年賀状はもともと年賀の挨拶を欠礼する代用として使われたものだ。今でも正月に帰省する人は少なくないだろうが、かつての日本では事有る毎に他人様のお宅を訪れたものだ。だから、どこの家でも茶と茶菓子を常備し、常日頃から掃除や整理整頓を心がけ、いつでも客を迎えることができるようにしていたものなのである。年末の大掃除も、一年の穢れを祓うという精神的な意味合いと同時に、年始客を気持ちよく迎えようというもてなしの心の表現でもあった。それが、時代とともに挨拶が簡略化され、直接訪問せずに賀状で代用し、賀状が年賀葉書になり、メールになり、携帯で「あけおめ」になり、やがて無くなるのだろう。街行く人を見ていると、携帯端末で電話やメールをしている姿が目立つが、それは他人とつながっているからではなく、そういう「つながっているつもり」になっていないと不安でどうしようもないほど深い孤独に陥っているということではないのだろうか。精神疾患の罹患者が増えているのは、それまで病気とは看做されなかったことが病気であることにされるようになったという所為もあるだろうが、平均的な人間関係が健康な精神を維持できないほどに薄く狭くなっているという事情のほうが大きいのではないか。
伝統工芸を守ろうと立ち上がった青年が、その技能の優秀さを各界から証明されているにもかかわらず、作ったものに需要が無いとして仕事を諦めざるを得ない状況が語っていることは、彼の仕事の危機ではなく、我々の社会全体が存亡の危機に瀕しているということではないだろうか。
その社会で生きている一人として、私は何かをしたい。何ができるかわからないが、少なくとも自分の周りの人間関係はきちんと築き上げたい。ひとりひとりが同じようなことを考えるようになれば、世の中は微動くらいするのではないだろうか。暑中見舞いの反応があまりに悪いので、年賀状はやめようかと思っていたが、ここは辛抱強く和紙のはがきに手書きで一生懸命書くことに決めた。ずっと続けて、死ぬまでにひとりでもいいから、話の通じる人と出会えれば、それで良しとすることにする。