日本の近世後期、17世紀後半から幕末にかけての日本画界は、概ね4つの流れに分類されるらしい。
1. 伝統的画流を継承する
2. 装飾性を強く表出する
3. 写生画を基調とする
4. 写意性を重視する
円山応挙は第三の画流に属するとされ、この系統の先駆者には、以前にこのブログでも何度か触れている伊藤若冲も挙げられる。三井記念美術館で見た応挙展の作品展示は、眼鏡絵で始まる。これは「のぞき眼鏡」という玩具に仕組まれる遠近法を用いた風景画だ。「のぞき眼鏡」の実物を見たわけではないが、思い浮かぶものがある。それはロンドンのナショナル・ギャラリーのオランダ絵画のコーナーに展示されていたものだ。昔の25インチテレビよりも一回り大きいくらいの大きさの木箱があり、その側面に小さな覗き穴が開いている。中には照明が置かれていて、覗き穴を通して中を観ると立体に見える風景が広がっているのである。
応挙が働いていた玩具商の尾張屋では、その「のぞき眼鏡」の絵を日本の風景に差し替えたものも販売したのだろう。現在でも観光名所となっている京都の寺院やその周辺の風景を、応挙は遠近法を用いて細密に描いている。おそらく、眼鏡絵の制作を通じて、彼は写実ということになにがしかの意義を見出したのだろう。
こんな話を聞いたことがある。生まれつき目の不自由な人が、長じて後に、医学の進歩や本人の経済事情の改善などによって、手術を受け、晴れてその眼が本来の機能を持つに至ったとする。果たして、その人は視力を得たと言えるだろうか、というのである。このような書き方をすれば回答の想像がつくだろうが、その人に外界は見えないのである。機能としては、その人の瞳を光が通過し、瞳は光の強弱に反応して網膜上に正確に像を結ぶとしても、脳がそれを認識しないのである。なぜなら、それまでに視覚情報を処理した経験がないので、脳に視覚情報処理能力が無いからだ。視覚を得るには、少しずつ視覚情報を処理する訓練を積むよりほかに方法が無いのだそうだ。
私はしばしば「人は経験を超えて発想することはできない」という文言を書き散らしている。それは、この視覚の話によっても例証できよう。日記やブログを書くようになって、身の回りのことをつらつらと考えることが多くなったのだが、それで改めて感じるのは自分がどれほど自分の生きている場を知らないかということだ。
ところで、応挙の作品で興味深いのは、眼鏡絵から始まって、最後は墨絵に至るというところだ。そこに人の視覚というものに対する彼なりの発見があるように思う。墨絵は、所謂「写実性」とは正反対の表現のように見えるが、実はそこに写実の真髄があるということなのではないだろうか。
例えば気に入った風景に出会ったとして、その写真を撮るとする。出来上がったプリントを見て、そこに自分が見たはずのものが無いと感じるのはよくあることだ。3次元空間で、そこには当然に大気もあれば風も吹き、音も聞こえるはずなのだが、残念ながら写真はそこまで描写することができない。たとえ動画であっても、機材のマイクが拾う音声は自分が経験している世界とは違う。しかし、風景写真に自分が見たはずの風景がないのはそういう物理的な問題だけに因るのではないだろう。見るという行為が、外光を処理するだけのことにとどまらないということが、より大きな原因ではないだろうか。
応挙晩年の作品には、それまでに彼が試行錯誤の末に会得したノウハウや技術が集積されているはずだ。たとえば「松に孔雀図襖」は松や孔雀そのものを描いたのではなく、見る人が松や孔雀を感じるように描いている。金地に色調の異なる2種類の墨だけで描かれたこの作品は、実物よりも遥かに限られた色しか使われていないにもかかわらず、松は松のように、孔雀は孔雀のように感じられる。おそらく視覚の効果を計算した上で画面構成や描画がなされているのだろう。
平面に空間を描く場合、平面上だけでの工夫には限界がある。その平面を観る人との距離、観る人の視覚、心理風景、など平面を起点にした世界の広がりを応挙は意識したということだろう。
たぶん、これは絵画の世界だけのことではあるまい。事を成そうとするのに、その場だけを意識していたのでは、物事は完成に至らないということだ。肝心なのは、それを受け止める人の意識だ。自分が何を表現するか、ということよりも、相手に何が見えるか、ということをより強く意識することで観る人の心を動かすものが出来上がるのではないだろうか。その前提にあるのは、観る人の視覚や意識を信頼することだ。自分に見えているのと同じように他人にも見えている、と信じなければ、画面から離れたところの工夫など思いもよるまい。あるものをあるがままに表現する、ということの背後に、そうした見えないものへの信頼、相手に対する想像力、といった見えない世界が広がっているのだと思う。
1. 伝統的画流を継承する
2. 装飾性を強く表出する
3. 写生画を基調とする
4. 写意性を重視する
円山応挙は第三の画流に属するとされ、この系統の先駆者には、以前にこのブログでも何度か触れている伊藤若冲も挙げられる。三井記念美術館で見た応挙展の作品展示は、眼鏡絵で始まる。これは「のぞき眼鏡」という玩具に仕組まれる遠近法を用いた風景画だ。「のぞき眼鏡」の実物を見たわけではないが、思い浮かぶものがある。それはロンドンのナショナル・ギャラリーのオランダ絵画のコーナーに展示されていたものだ。昔の25インチテレビよりも一回り大きいくらいの大きさの木箱があり、その側面に小さな覗き穴が開いている。中には照明が置かれていて、覗き穴を通して中を観ると立体に見える風景が広がっているのである。
応挙が働いていた玩具商の尾張屋では、その「のぞき眼鏡」の絵を日本の風景に差し替えたものも販売したのだろう。現在でも観光名所となっている京都の寺院やその周辺の風景を、応挙は遠近法を用いて細密に描いている。おそらく、眼鏡絵の制作を通じて、彼は写実ということになにがしかの意義を見出したのだろう。
こんな話を聞いたことがある。生まれつき目の不自由な人が、長じて後に、医学の進歩や本人の経済事情の改善などによって、手術を受け、晴れてその眼が本来の機能を持つに至ったとする。果たして、その人は視力を得たと言えるだろうか、というのである。このような書き方をすれば回答の想像がつくだろうが、その人に外界は見えないのである。機能としては、その人の瞳を光が通過し、瞳は光の強弱に反応して網膜上に正確に像を結ぶとしても、脳がそれを認識しないのである。なぜなら、それまでに視覚情報を処理した経験がないので、脳に視覚情報処理能力が無いからだ。視覚を得るには、少しずつ視覚情報を処理する訓練を積むよりほかに方法が無いのだそうだ。
私はしばしば「人は経験を超えて発想することはできない」という文言を書き散らしている。それは、この視覚の話によっても例証できよう。日記やブログを書くようになって、身の回りのことをつらつらと考えることが多くなったのだが、それで改めて感じるのは自分がどれほど自分の生きている場を知らないかということだ。
ところで、応挙の作品で興味深いのは、眼鏡絵から始まって、最後は墨絵に至るというところだ。そこに人の視覚というものに対する彼なりの発見があるように思う。墨絵は、所謂「写実性」とは正反対の表現のように見えるが、実はそこに写実の真髄があるということなのではないだろうか。
例えば気に入った風景に出会ったとして、その写真を撮るとする。出来上がったプリントを見て、そこに自分が見たはずのものが無いと感じるのはよくあることだ。3次元空間で、そこには当然に大気もあれば風も吹き、音も聞こえるはずなのだが、残念ながら写真はそこまで描写することができない。たとえ動画であっても、機材のマイクが拾う音声は自分が経験している世界とは違う。しかし、風景写真に自分が見たはずの風景がないのはそういう物理的な問題だけに因るのではないだろう。見るという行為が、外光を処理するだけのことにとどまらないということが、より大きな原因ではないだろうか。
応挙晩年の作品には、それまでに彼が試行錯誤の末に会得したノウハウや技術が集積されているはずだ。たとえば「松に孔雀図襖」は松や孔雀そのものを描いたのではなく、見る人が松や孔雀を感じるように描いている。金地に色調の異なる2種類の墨だけで描かれたこの作品は、実物よりも遥かに限られた色しか使われていないにもかかわらず、松は松のように、孔雀は孔雀のように感じられる。おそらく視覚の効果を計算した上で画面構成や描画がなされているのだろう。
平面に空間を描く場合、平面上だけでの工夫には限界がある。その平面を観る人との距離、観る人の視覚、心理風景、など平面を起点にした世界の広がりを応挙は意識したということだろう。
たぶん、これは絵画の世界だけのことではあるまい。事を成そうとするのに、その場だけを意識していたのでは、物事は完成に至らないということだ。肝心なのは、それを受け止める人の意識だ。自分が何を表現するか、ということよりも、相手に何が見えるか、ということをより強く意識することで観る人の心を動かすものが出来上がるのではないだろうか。その前提にあるのは、観る人の視覚や意識を信頼することだ。自分に見えているのと同じように他人にも見えている、と信じなければ、画面から離れたところの工夫など思いもよるまい。あるものをあるがままに表現する、ということの背後に、そうした見えないものへの信頼、相手に対する想像力、といった見えない世界が広がっているのだと思う。