熊本熊的日常

日常生活についての雑記

塩一トン

2010年11月11日 | Weblog
昨日ブログを書いていて、須賀敦子のエッセイ「塩一トンの読書」を唐突に思い出した。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」

須賀が、折に触れて姑から言われた言葉なのだそうだ。エッセイのなかでは、塩一トンを一緒に舐めるとは、いろいろな経験を共にする、というような意味で語られている。しかし、私は文字通り食を共にするという意味なのではないかと感じている。食事の場というのは、人となりがかなりはっきりと露出する、と私は思っている。一緒に食事をするということは五感を総動員した上にそれらを十二分に稼働させて、その上に第六感までも駆使して相手を認識することでもある。だから食事を共にして楽しい相手とは、交流が長く続くものだし、食事を共にするのが嫌な相手とは自然に疎遠になる。付き合いの深さを決める一番大きな要素は、どのようなものを美味しいと感じるかという感性を共有できるかどうかだと思う。それこそ塩加減に対する好みであるとか、素材の加工度合いについての嗜好だとか、頂くときの作法であるとか、作り手への感謝の意識とか、食を取り巻く諸々にその人の価値観が端的に表れると思っている。勿論、そこで感じることが相手のすべてではないので、結論はエッセイと同じく、ひとりの人間を理解するのは、どれほど時間をかけても理解しきれるものではない、というようなことに落ち着く。

人に限らず物事を知るというのは、塩を一トン舐めるくらいの気の遠くなるような時間をかけるつもりで付き合ってこそ、少しは相手のことがわかるような心持ちがするようになるということだろう。相手をわかる、と言えるような近さを意識するようになって、そこから心地良い関係を築くことができるようになるものだ。生活の現場の変化の度合いが大きいと、つい結論を急ぎたくなってしまうのだが、別に世間の変化に付き合う義理はないのである。直観も大切にしなければならないが、慌てて下した結論はたいていの場合はろくでもないことにつながる、というのが個人的な経験に基づく教訓だ。納得のいく結論を出すには、時間をかけていろいろなことを経験するよりほかに方法はないように思う。何か事を起こしてみれば、何かしら反応を得る。習慣に流されて何もしないというのは不毛だ。どれほど些細なことであっても「何か」を積み重ねることこそが生きることだと思う。一トンという量はともかくとして、塩は舐めてみるものだと思うし、舐め続けるものだと思う。