熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「自分」の領域

2010年11月24日 | Weblog
韓国と北朝鮮の間で武力衝突があり、韓国の延坪島が北朝鮮の砲撃を受けて犠牲者が出た。ということくらいは、テレビや新聞がなくてもわかる。今回の事件についての報道をネットで見ていて改めて驚いたのは、韓国の首都であるソウル、玄関口ともいえる仁川国際空港が南北軍事境界線にかなり近い位置にあることだ。砲撃を受けた延坪島は、ほぼ境界線上と言えるほど微妙な位置(添付地図の3番の島)だ。微妙な位置だけに、韓国側は1,000人規模の軍隊を駐屯させているし、北朝鮮側もこの島を射程に納めた平曲射砲群を構えているという。今回の北朝鮮側の砲撃もこの曲射砲によるものだという。

素朴な疑問として、そのような微妙な場所に住民がいるのは何故なのだろうか、と思った。軍隊とそれに付随する職業の住民は別にして、敵対する隣国から銃口を突きつけられているような場所に暮らすようになるには、どのような経緯があったのだろうか。

尖閣諸島の事件に際し、相手側は「歴史的経緯」というものを持ち出してきた。あの理屈に従うと、明朝と清朝から冊封を受け、その属国であった琉球王国も中国の領土ということになる。そのうち同じ理屈で元の時代に統治した現在のロシアも中国領か。歴史をどこまで遡るかによって、その時々の都合の良いように「正当」あるいは「正統」な領土というものを設定できてしまう。島の場合は領域が比較的明瞭なので、そういう暴論を振りかざすこともできるのだろうが、陸続きの土地の「歴史」を遡るとなると容易なことではないだろう。特に歴史が古く民族の移動が活発であった欧州から中東にかけての領域で「歴史的」などと言っても、誰も相手にしないだろう。

国家の成り立ちを考えるとき、そこには当然に構成員たる国民の自意識の構造というものが反映されているような気がする。誰しも、生まれようと思って生まれてきたわけではないのだが、生まれてしまうと、何の疑いも無く「存在する権利」なるものを想定する。意図せず生を受け、権利だの義務だのと言い出すのも妙なことだが、これを否定してしまうと、そもそも社会秩序というものが成り立たない。つまり、我々の生活が拠って立つところというのは、合意とか共同幻想のようなあやふやなものなのである。あやふやなものが集まって社会をつくり、それが小さなものは家族から、大きなものは国家に至る重層構造のようなものを成している。いわば幻想の幻想的な集合の幻想のようなものだ。そこに思い込みの対立が起こるのは当然のことなのである。本来、何者でも何物でもないところに「私」という幻想が絡むところから様々な問題が発生する。

例えば、大規模な公共施設の建設に際し、用地を確保しようとすると地権者のなかから反対や拒否の動きが出ることがある。時に「先祖代々伝わったものを守らねば」というような大儀を振りかざすこともある。日本の歴史においては、土地の所有をしていたのは一握りの権力者であり、数から言えば圧倒的大多数は小作人や漂流民だ。そんなにたくさんの「先祖代々守り抜いた」土地が存在するとは思えないのだが、戦後の農地解放で多くの土地所有者が生まれたのは事実である。「先祖」をどこまで遡るかによって、土地所有の正当性や正統性が決まるということだ。

個人の発想も、その個人が集団を成して作る国家の発想も、原理的には似たようなものということなのだろう。韓国と北朝鮮は「同じ民族」というようなことを耳にすることがある。学術的には「民族」という言葉の定義はあるだろうが、「民族」とはどれほど確固とした集団なのだろうか。集団の基礎が「私」にある限り、世に争い事はなくならないだろう。「私」は「私」が思うほどに理性的でも知的でもなく、けっこう本性は野蛮にできているものだと思う。それでなければ、これほど長く歴史を刻み続けてはいられないだろう。