熊本熊的日常

日常生活についての雑記

伝統工芸考

2010年11月04日 | Weblog
誤解があるといけないので、ここではっきりとさせておきたいのだが、私は闇雲に伝統を守るべきだとは考えていない。時間の経過と共に、人間の営みの結果として自然に蓄積され展開していく知識や技術があり、一方でそうしたものに駆逐されていくものもある。そうした変化が歴史を紡いでいくものだと思う。もし、和紙が同程度の品質を伝統的な手法によるよりも簡便かつ安価に制作できるなら、そのほうが社会には有益だろう。残すのも守るのも人間のすることであり、結果がどうあれ、伝統の取捨選択は我々自身の意思決定に拠るのである。

技術というものは、そこに暮らす人々の生活にとって有益であるべきだと思う。「有益」というのは、単に便利になるということではなしに、喜びとか安堵感をもたらすという意味だ。伝統というものを守ることで、作り手も使い手も苦痛を味わうというなら、果たしてそうした伝統を守る意味はあるだろうか。

和紙を伝統的な技法と原材料とによって制作するのは所謂「伝統工芸」である。こうした分野については「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」という法律もある。これによれば、「伝統的」とは、「工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品」という意味なのだそうだ。平成21年4月現在、この法律に基づいて経済産業大臣が指定する「伝統的工芸品」は全国に211品目あるという。(財団法人 伝統的工芸品産業振興協会のウエッブサイト参照)

この法律に基づいて振興の対象となる 「伝統的工芸品」とされるには、次の要件が必要と規定されている。

1.主として日常生活で使われるもの
2.製造過程の主要部分が手作り
3.伝統的技術または技法によって製造
4.伝統的に使用されてきた原材料
5.一定の地域で産地を形成

上記の要件のなかで「伝統的」の基準だが、原則として100年間変らぬ技法と原材料の使用とのことだ。学術研究の対象としてなら、技法や原材料の保存は重要だろうが、それと「日常生活」での使用とを両立させることは可能なのだろうか。身の回りの風景を見れば明らかなように、我々の生活の場はめまぐるしく変化している。変化のなかで営まれるのが「日常生活」だ。そこに100年変らぬものを持ち込むことは現実的なことなのだろうか。そのものが普遍的ともいえる美しさを備えていて、100年といわず1,000年でも伝えていきたいというようなものであったとしても、最大の現実的課題はコストだろう。例えば、伝統的工芸品で家財日用雑貨を揃えたら、果たしていくらかかるのか、ということだ。コストを構成するのは人件費と原材料費。人件費のほうは製品市場が自律的に決定するにしても、原材料は市場原理だけに依存するものではないだろう。和紙ならば楮やトロロアオイのような植物が使われる。これらを安定的に供給できる環境がなければ、生産はできないし、生産できなければ技術も継承できない。原材料の植物を守るのは農政であり、自然環境まで視野に入れるなら世界規模での環境対策だ。「コスト」と一言で表現されるものの背後には果てしない奥行きがある。そのものを巡る人々の哲学や世界観が反映されていると言ってもよいだろう。

本来、法律という国家が主体となって取り決めることは、その背景に国家としての世界観や政治哲学がなければならない。それは人の一世代を超えた長い時間を視野に置いて考えなければならない事柄なので、そうした実務を担う公務員は終身雇用を保証されているのであり、意思決定を担う政治家は選挙によって選ばれるのである。現実にそうした公務員像にふさわしい人間が公務員になっているのか、政治家像にふさわしい人間が政治家になっているのか、ということに関しては、私は知らない。

伝統的工芸品に関する法律が経済産業省の管轄になっているのは、それが文化というよりも産業政策や技術政策の一部を成すという認識が政府にあるということだ。「技術」という言葉に先端技術を連想する人は少なくないだろうが、最終製品やサービスとなって人々の生活に浸透する形態に至るには、先端技術だけではなく、基盤技術も伝統技術も当然に必要なのである。実際のものづくりの現場では、製品に使われる部材や治具が精密に作られていなければならないし、物性に応じた部材や道具の扱いは完成品の安定性に大いに関係する。精密かつ正確につくられたネジとか、ネジの材質とそのネジが留める対象物の材質との適切な組み合わせ、というようなことが基盤技術や伝統技術の範疇である。

新幹線に使用されている300系車両が運行を開始した頃、頻繁にトラブルが発生した。その一つに車両床下にモーターを取り付けているボルトが抜け落ちるというものがあったが、その主たる原因は、塗装後にボルトを締めたことで、ボルト穴とボルトの間に入り込んでいた塗料が乾燥して縮小し、隙間が生じたことによるものだった。ボルト締め付け前に塗装を施すというのは基盤技術の世界ではあり得ないことだそうだ。そのあり得ない工程が乗客の生命を預かる鉄道車両の製造過程に入り込むというのは、製造にかかわる人々の間で基盤技術が軽視あるいは無視されていることの現われだ。製造現場もそれを監督する立場の役所にも、技術というものが伝統的なものから先端に至るまで連続的に蓄積されたものの上に成り立っているという認識が無いから、このような失態を演じることになるのである。和紙の話がいきなり新幹線に飛躍したが、ものをつくるという行為の背景にある思想は同じだということを言いたかっただけだ。

伝統工芸というのは、決して単なる標本のようなものではない。その背景にある思想や哲学は人の生活のなかに連綿と続いている何事かを象徴しているものなのである。何事か、というものは個別要素に分解しきれるものではないので、伝統工芸を丸ごと保存することが、未来へ向けた科学技術の発展にも大きな意味がある。未来に対する意味があるということは、現在の我々の生活にはもっと大きな意味があるということだ。本当にそうなのかどうか知らないが、私はそのように考えている。