子供と一緒に神楽坂の「てまめ」にお邪魔した後、ZIOで昼食をいただき、赤坂へ移動して花緑の独演会を聴いた。
以前にも神楽坂界隈の様子について、ここに書いたことがあるが、今日も多くの店舗が開店する11時前に着いたので、時間を潰しを兼ねて、けっこう歩きまわることになった。改めて気がついたのは、飲食店の多さだ。もともと割烹や小料理屋は多かったが、それにフレンチやイタリアンなどの比較的高めのグレードの店が目立つようになり、表通りは逆にチェーン店やカジュアル系が多い。それにしても、これだけの店舗が一様に繁盛するほど、街全体に来客数があるとも思えない。素朴に不思議な街である。
街の変化という点では赤坂見附界隈も同じような状況だ。2001年暮れから2005年3月まで勤務先が霞ヶ関だったのと、山王や赤坂に知人が何人か勤務していた関係で、このあたりはその当時の昼食エリアだった。相変わらず飲食店が密集しているが、その中身はかなり入れ替わっている。それがこの街の住人や利用者にとって良い結果をもたらいしているのか、そうではないのか、ということは体験していないで何とも言えない。
今回の落語会の会場である赤坂RED THEATERが入っている建物が竣工したのは2006年だそうだ。劇場以外の階上のスペースは赤坂グランベルホテルで、サイトを眺めていると、どこか見覚えがある内装だと感じる。「クラスカ」が手がけたのだそうで、よく言えば成功体験の移植である。劇場のほうは、落語のように、演じ手と観客との距離の近さが有効に機能しやすいものには適した規模だと思う。しかし、劇場というのは、劇を観るだけの空間ではない。休憩時間にトイレに行列ができるようでは、いくら劇場での公演が素晴らしくても、観劇体験としては興ざめの印象が拭えない。また、観劇中は演じるほうに負けず劣らず客もそれなりに緊張をしているので、休憩に一息つくことのできるような空間がないと、よほど素晴らしい内容の公演でない限り、疲労感で集中力を欠いてしまったり、不快な感覚が残ってしまったりする。要するに、この劇場の設計者には、劇場というものがわかっているとは思えないし、劇場を理解できていないということは、そもそも文化や文明を理解できていないとういことだ。赤坂に公民館以下のものを建ててどうする気なのだろうか。
花緑の独演会は、前座なし、本人のみ、中入り挟んで一席ずつ、一席目が古典で、メインはトリの創作落語、という構成だ。創作のほうは、落語というよりもひとり芝居のような体裁だが、噺家が全役をこなすという点では紛れも無い落語である。約1週間に亘って「我らが隣人の犯罪」という創作落語を演じるという、演劇のような公演でもある。
形式はともかく、公演としては実験的だとの印象が強い。宮部みゆきのメジャーデビュー作を落語にしたという点で、話の大筋を知っている上で口演を聴くというところは古典落語を聴くのと同じだ。しかし、短編とは言え小説を落語に起こすのは容易なことではないようだ。落語が伝統芸能として長い年月を経てもなお続いているのは、極端に単純化された様式に秘訣があるように思う。舞台装置も何も無い場所で、口演だけによって聴衆の脳裏に演劇空間を描き出すという、単純であるが故の難易度の高さがあるからこそ歴史の淘汰に耐えることができていたように思う。噺家は着物を着て座布団の上に座っていなければならない、とは思わないが、なぜそのようなスタイルが固定されたのかを考える必要はあるだろう。舞台装置が無いことや、演者が意味性の低い身なりをしていることで、聴衆の想像力の運動が余計な影響を受けないということがあると思う。ちょっとした小道具が観客に無用な先入観を与えてしまうことの、効果と危険とのバランスは演じる側が十二分に考慮しなければいけないことだと思う。小説が映画化されると、「原作のほうが面白かった」という声を聞くことが多いように感じる。落語の場合はどうだろうか。
最近読んだ小林秀雄の著作のなかにこんな一節があった。
「学生時代、辰野先生のモリエールの購読を聞いていて、私は面白くもおかしくもなかった。こんな高尚な喜劇は御免であると思っていた。或る時、これで見物は笑うんですか、と愚問を発すると、先生は答えた、笑うさ、ゲラゲラ笑うよ、君は落語を本で読んで笑うかね。私は飜然として悟る処があったのを思い出す。どんなに散文化されても台詞は散文にはならない。俳優の肉声に乗り一種の歌として聞えて来なければ、その本当の意味は現れる筈がないから。」(新潮社 小林秀雄全作品18「表現について」212頁 「ヘッダ・ガブラー」)
私も落語はある種の音楽であるように思う。落語で「間」ということがとやかく言われることが多いのが、その何よりの証左だろう。ストーリーもサゲも全て承知している噺を、飽きもせずに聴きにでかけるのは、リズムもメロディも承知の上でコンサートやライブに足を運ぶのと同じことなのではないか。演劇も同じなのだが、落語を書いたり演じたりする人がそうした音楽性と言語との関係や、演じ手の肉体の意味というようなことを、きちんとわかっているのだろうかと疑問に感じるときが、無いこともない。
ところで、私の子供が卒業した小学校では、毎年六年生を相手に花緑が落語を演じている。子供に「どうだった?」と尋ねると、「小学校の頃のことはよく覚えていない」と言う。「覚えていない」のではなく、「思い出したくない」ということだろう。4年生頃だったろうか、子供は所謂いじめにあっていた。1年生から6年生まで、毎朝子供の通う学校の最寄り駅まで一緒に通勤通学していたのだが、そのころ電車の中の会話でこんなことがあった。
「ねぇ、おとうさん、会社楽しい?」
「べつに楽しみにして行くところじゃないけど、嫌いじゃないよ」
「わたしはね、学校はそれほど楽しくないな」
よほど鈍感な奴でも、学校で何が起こっているか想像ができるだろう。幸い、いじめっ子集団のターゲットが別の子のほうに向いたことや、諸々の幸運もあり、事態が深刻化することはなく、なんとか卒業まで迎えることができたが、転校させなければならないかもしれないと考えたこともあった。
ときどき、いじめを苦にした子供の自殺があるが、社会集団がある方向性を持って動き出したとき、それを是正することができるのは集団の自律的な運動以外には無いと思う。教師にも親にも止めることはできないのである。親としては本人の生命力のようなものに期待するより他に、決定的に有効な対策というものは無い。親の側の行動のヒントになるのは、ボクシングやレスリングのような格闘技におけるセコンドの役割だと思う。集団は弱者と認識したものに対して残酷な牙を剥くものだ。とすれば、弱者とは思わせないことが必須なのである。あと、人間の行動は習慣に大きく左右される。この習慣を変えるのは容易ではないが、かといって無理なことでもない。案外、小さなきっかけで大きく習慣が変化することもある。いずれにしても、本人の思考や行動に変化を起こす契機が必要で、逆に、それ以上のことを下手にすると事態を悪化させることにもなる。格闘技で強い選手のセコンドがどのような行動をしているのか、観察に値すると思う。いつものように話題が脱線し始めたので、今日はもう筆を置くことにする。ただ、セコンドがしていることも、ある種の創作だと思う、とだけ記しておく。
演目
柳家花緑 「二階ぞめき」
(中入り)
柳家花緑 「我らが隣人の犯罪」
開演 14時00分
閉演 16時15分
会場 赤坂RED THEATER
以前にも神楽坂界隈の様子について、ここに書いたことがあるが、今日も多くの店舗が開店する11時前に着いたので、時間を潰しを兼ねて、けっこう歩きまわることになった。改めて気がついたのは、飲食店の多さだ。もともと割烹や小料理屋は多かったが、それにフレンチやイタリアンなどの比較的高めのグレードの店が目立つようになり、表通りは逆にチェーン店やカジュアル系が多い。それにしても、これだけの店舗が一様に繁盛するほど、街全体に来客数があるとも思えない。素朴に不思議な街である。
街の変化という点では赤坂見附界隈も同じような状況だ。2001年暮れから2005年3月まで勤務先が霞ヶ関だったのと、山王や赤坂に知人が何人か勤務していた関係で、このあたりはその当時の昼食エリアだった。相変わらず飲食店が密集しているが、その中身はかなり入れ替わっている。それがこの街の住人や利用者にとって良い結果をもたらいしているのか、そうではないのか、ということは体験していないで何とも言えない。
今回の落語会の会場である赤坂RED THEATERが入っている建物が竣工したのは2006年だそうだ。劇場以外の階上のスペースは赤坂グランベルホテルで、サイトを眺めていると、どこか見覚えがある内装だと感じる。「クラスカ」が手がけたのだそうで、よく言えば成功体験の移植である。劇場のほうは、落語のように、演じ手と観客との距離の近さが有効に機能しやすいものには適した規模だと思う。しかし、劇場というのは、劇を観るだけの空間ではない。休憩時間にトイレに行列ができるようでは、いくら劇場での公演が素晴らしくても、観劇体験としては興ざめの印象が拭えない。また、観劇中は演じるほうに負けず劣らず客もそれなりに緊張をしているので、休憩に一息つくことのできるような空間がないと、よほど素晴らしい内容の公演でない限り、疲労感で集中力を欠いてしまったり、不快な感覚が残ってしまったりする。要するに、この劇場の設計者には、劇場というものがわかっているとは思えないし、劇場を理解できていないということは、そもそも文化や文明を理解できていないとういことだ。赤坂に公民館以下のものを建ててどうする気なのだろうか。
花緑の独演会は、前座なし、本人のみ、中入り挟んで一席ずつ、一席目が古典で、メインはトリの創作落語、という構成だ。創作のほうは、落語というよりもひとり芝居のような体裁だが、噺家が全役をこなすという点では紛れも無い落語である。約1週間に亘って「我らが隣人の犯罪」という創作落語を演じるという、演劇のような公演でもある。
形式はともかく、公演としては実験的だとの印象が強い。宮部みゆきのメジャーデビュー作を落語にしたという点で、話の大筋を知っている上で口演を聴くというところは古典落語を聴くのと同じだ。しかし、短編とは言え小説を落語に起こすのは容易なことではないようだ。落語が伝統芸能として長い年月を経てもなお続いているのは、極端に単純化された様式に秘訣があるように思う。舞台装置も何も無い場所で、口演だけによって聴衆の脳裏に演劇空間を描き出すという、単純であるが故の難易度の高さがあるからこそ歴史の淘汰に耐えることができていたように思う。噺家は着物を着て座布団の上に座っていなければならない、とは思わないが、なぜそのようなスタイルが固定されたのかを考える必要はあるだろう。舞台装置が無いことや、演者が意味性の低い身なりをしていることで、聴衆の想像力の運動が余計な影響を受けないということがあると思う。ちょっとした小道具が観客に無用な先入観を与えてしまうことの、効果と危険とのバランスは演じる側が十二分に考慮しなければいけないことだと思う。小説が映画化されると、「原作のほうが面白かった」という声を聞くことが多いように感じる。落語の場合はどうだろうか。
最近読んだ小林秀雄の著作のなかにこんな一節があった。
「学生時代、辰野先生のモリエールの購読を聞いていて、私は面白くもおかしくもなかった。こんな高尚な喜劇は御免であると思っていた。或る時、これで見物は笑うんですか、と愚問を発すると、先生は答えた、笑うさ、ゲラゲラ笑うよ、君は落語を本で読んで笑うかね。私は飜然として悟る処があったのを思い出す。どんなに散文化されても台詞は散文にはならない。俳優の肉声に乗り一種の歌として聞えて来なければ、その本当の意味は現れる筈がないから。」(新潮社 小林秀雄全作品18「表現について」212頁 「ヘッダ・ガブラー」)
私も落語はある種の音楽であるように思う。落語で「間」ということがとやかく言われることが多いのが、その何よりの証左だろう。ストーリーもサゲも全て承知している噺を、飽きもせずに聴きにでかけるのは、リズムもメロディも承知の上でコンサートやライブに足を運ぶのと同じことなのではないか。演劇も同じなのだが、落語を書いたり演じたりする人がそうした音楽性と言語との関係や、演じ手の肉体の意味というようなことを、きちんとわかっているのだろうかと疑問に感じるときが、無いこともない。
ところで、私の子供が卒業した小学校では、毎年六年生を相手に花緑が落語を演じている。子供に「どうだった?」と尋ねると、「小学校の頃のことはよく覚えていない」と言う。「覚えていない」のではなく、「思い出したくない」ということだろう。4年生頃だったろうか、子供は所謂いじめにあっていた。1年生から6年生まで、毎朝子供の通う学校の最寄り駅まで一緒に通勤通学していたのだが、そのころ電車の中の会話でこんなことがあった。
「ねぇ、おとうさん、会社楽しい?」
「べつに楽しみにして行くところじゃないけど、嫌いじゃないよ」
「わたしはね、学校はそれほど楽しくないな」
よほど鈍感な奴でも、学校で何が起こっているか想像ができるだろう。幸い、いじめっ子集団のターゲットが別の子のほうに向いたことや、諸々の幸運もあり、事態が深刻化することはなく、なんとか卒業まで迎えることができたが、転校させなければならないかもしれないと考えたこともあった。
ときどき、いじめを苦にした子供の自殺があるが、社会集団がある方向性を持って動き出したとき、それを是正することができるのは集団の自律的な運動以外には無いと思う。教師にも親にも止めることはできないのである。親としては本人の生命力のようなものに期待するより他に、決定的に有効な対策というものは無い。親の側の行動のヒントになるのは、ボクシングやレスリングのような格闘技におけるセコンドの役割だと思う。集団は弱者と認識したものに対して残酷な牙を剥くものだ。とすれば、弱者とは思わせないことが必須なのである。あと、人間の行動は習慣に大きく左右される。この習慣を変えるのは容易ではないが、かといって無理なことでもない。案外、小さなきっかけで大きく習慣が変化することもある。いずれにしても、本人の思考や行動に変化を起こす契機が必要で、逆に、それ以上のことを下手にすると事態を悪化させることにもなる。格闘技で強い選手のセコンドがどのような行動をしているのか、観察に値すると思う。いつものように話題が脱線し始めたので、今日はもう筆を置くことにする。ただ、セコンドがしていることも、ある種の創作だと思う、とだけ記しておく。
演目
柳家花緑 「二階ぞめき」
(中入り)
柳家花緑 「我らが隣人の犯罪」
開演 14時00分
閉演 16時15分
会場 赤坂RED THEATER