五島美術館が改修工事のために11月29日から2年間ほど休館になる。休館前最後の企画展が「国宝源氏物語絵巻」だ。源氏物語は紫式部によって西暦1000年頃に書かれたとされているが、紫式部が何者であるかという人物像についてはかなり絞り込まれているようだが、正確に誰かということまでは特定できないらしい。何のために書かれたかということについては、一条天皇の皇子を生んだ、左大臣・藤原道長の娘、中宮・彰子の出産祝いの品として企画されたということらしい。紫式部はこのプロジェクトの現場責任者でもあったという。源氏物語絵巻は、この源氏物語に基づいて制作された絵巻で、現存しているものは源氏物語そのものの現存最古の写本でもある。その最古の絵巻が成立したのが12世紀前半頃と考えられているそうだ。現在、その最古の絵巻が徳川美術館と五島美術館に所蔵されており、今回は五島美術館の創立50周年と改修工事前最後の企画展という特別な事情があって、徳川美術館所蔵の絵巻と合わせて展示されることになったそうだ。
私は源氏物語を読んだことがない。日本で生まれ育ったのだから、高校の古文の時間にその断片くらいには接したかもしれない。それでも、なんとなく知っているような心持ちでいるのは、それだけこの物語の存在感が大きいということだろう。2007年にはフランスで豪華に装丁された仏語完訳版が刊行されたそうだが、総重量が10kgを超えているそうだ。フランス版には海外に流出した絵巻からの絵が多数おさめられているそうだが、日本で同じような装丁で、絵巻物の絵も含めて現代語の完訳版を作れば、やはり似たような規模になるだろうか。いずれにしても様々な意味において大きな作品だ。物語は三部構成で第一部と第二部の主人公は光源氏。彼は天皇、桐壺帝の子供、皇子である。長じて天皇になってもよさそうなものだが、そうはならない。しかし、彼が父帝の后である藤壷との間に子供をもうけ、その子が天皇になる。冷泉帝だ。息子が天皇になれば、当然に自分の権勢も強くなる。こうした光源氏の栄華が第一部なのだそうだ。第二部では、因果応報とでも言うのだろうか。齢を重ねた光源氏が、若き貴公子である柏木に、妻のひとり女三の宮を寝取られてしまう。最愛の妻であった葵の上は亡くなってしまう。そんなこんなで潮時を悟ったのか、光源氏は出家してしまう。第三部は光源氏の子供や孫たちがごちゃごちゃと好いた惚れたとか、権力の座を狙うとか狙わないとか、そういう話らしい。
今の時代に「源氏物語」というと、光源氏の色恋沙汰にばかり注目されるような気がするのだが、それはその部分が一番わかりやすいからというだけのことだろう。この物語はやんごとなき人々の世界を描いているので、恋愛のほかに、誰の娘をものにして出世を狙うとか、自分の子供を誰の子供とくっつけて権力を狙うとか、本人の意思とは無関係に婚姻が決定されるようなことも描かれているようだ。好きな相手と結婚する、というと当たり前のことのようだが、恋愛と結婚が直接結びつくようになったのは日本では近代以降のことだろう。
人間に限らず生き物の多くは種の保存を生存原理としている。人間の場合は他の動物とちがって、生まれてから生殖能力を持つに至るまでの期間が異常に長い。生殖能力どころか自立できない姿で生後数年を過ごさなければならない。そのために、種の保存を担うはずの無能力な個体が成長して自立するまで守り育てる仕組みが必要とされるのである。その仕組みが家庭であったり、社会であったり、国家であったりする。個人にとってみれば、恋愛だの結婚だのは一大事かもしれないが、種としてみれば、そこに必然性は無い。つまり、結婚相手が好きとか嫌いとか、家庭が円満であるとか不和であるとか、というようなことは取るに足らないことなのである。
もちろん、生存に適した環境にあるほうが、種の保存には都合が良い。絶え間なき闘争で生命が脅かされるよりは、平和に生産性を追及するほうが具合が良いのだろうし、ストレスに苛まれるよりは、精神的に平穏であるほうが、生産活動に集中できてよいのだろう。しかし、物事には適切な規模というものがある。今の人類は地球という環境のなかで、果たして適切な規模なのか。
源氏物語から話が飛躍するようだが、源氏物語が1000年もの年月を経て今なお存在感を放ているのは、そこに描かれている男女の物語に普遍性があるからということなのではないだろうか。男が女を求め女が男を求めるという直線的な構造のようなものが基本にあり、そこに「恋愛」という釈明を設けて家庭の生成を正当化させるのが、我々が生きている社会なのではないか。源氏物語の時代、文字の読み書きができる社会階層にとっては、天皇を巡る物語が身近であったので、あのような物語になったのだろう。あの時代、恋愛も権力構造も、そして国家という存在をも、男女の関係を軸に描写できる程度の社会の規模だったということだったということだ。
ところで、この夏に岩波文庫の「古今和歌集」を読み始めた。もともと和歌に興味が無い所為もあるのだろうが、あと一息で読了というところまできているのだが、なかなか進まない。古今和歌集は醍醐天皇の勅命によって撰進された最初の勅撰和歌集、つまり国家プロジェクトだ。その内容は、圧倒的に恋歌である。このことも読み進むことを遅らせている理由のひとつだ。和歌というのは、そこで語っているエッセンスは「花がきれいだ」とか「紅葉が美しい」というような自然を賛美したものと、「あなたがすきです」という恋心を表現したものだ。和歌に関しては宮中行事に「歌合せ」というものもある。これは男性チームと女性チームに分かれて互いに歌を送りあう、という宮中公務だ。今でも形式的なものが残っていて、その様子が報道されたりするが、もともとは夜を徹して行われたものだ。そして、和歌を上手く作ることができる能力というのも、宮中に生きる人々の出世に大いに影響したのだという。
「きれい」「すき」「やりたい」というような単純なメッセージを、どれほど古今東西の文物や美辞麗句に乗せ、しかもそれを三十一文字という形式にまとめて表現するか、というのは、確かに深い教養が求められることではある。しかし、そのことに莫大なエネルギーを費やさねばならなかったということの背後にあるものは何だったのだろう。そして、その背後にあるものが現代の社会を動かす基本原理のようなものと同じなのか、異質なのか。
確たる考えがあるわけではないのだが、私は人間の営みというものは、歴史を超えて継承される程度の至極単純なものに貫かれているような気がする。その単純なものを見失い、その単純なものが纏っている装飾やそれにまつわる枝葉末節に囚われたときに、とてつもない不幸に襲われるのではないだろうか。現代という時代が、その「とてつもない不幸」の真っ只中にあるような気がしてならない。
私は源氏物語を読んだことがない。日本で生まれ育ったのだから、高校の古文の時間にその断片くらいには接したかもしれない。それでも、なんとなく知っているような心持ちでいるのは、それだけこの物語の存在感が大きいということだろう。2007年にはフランスで豪華に装丁された仏語完訳版が刊行されたそうだが、総重量が10kgを超えているそうだ。フランス版には海外に流出した絵巻からの絵が多数おさめられているそうだが、日本で同じような装丁で、絵巻物の絵も含めて現代語の完訳版を作れば、やはり似たような規模になるだろうか。いずれにしても様々な意味において大きな作品だ。物語は三部構成で第一部と第二部の主人公は光源氏。彼は天皇、桐壺帝の子供、皇子である。長じて天皇になってもよさそうなものだが、そうはならない。しかし、彼が父帝の后である藤壷との間に子供をもうけ、その子が天皇になる。冷泉帝だ。息子が天皇になれば、当然に自分の権勢も強くなる。こうした光源氏の栄華が第一部なのだそうだ。第二部では、因果応報とでも言うのだろうか。齢を重ねた光源氏が、若き貴公子である柏木に、妻のひとり女三の宮を寝取られてしまう。最愛の妻であった葵の上は亡くなってしまう。そんなこんなで潮時を悟ったのか、光源氏は出家してしまう。第三部は光源氏の子供や孫たちがごちゃごちゃと好いた惚れたとか、権力の座を狙うとか狙わないとか、そういう話らしい。
今の時代に「源氏物語」というと、光源氏の色恋沙汰にばかり注目されるような気がするのだが、それはその部分が一番わかりやすいからというだけのことだろう。この物語はやんごとなき人々の世界を描いているので、恋愛のほかに、誰の娘をものにして出世を狙うとか、自分の子供を誰の子供とくっつけて権力を狙うとか、本人の意思とは無関係に婚姻が決定されるようなことも描かれているようだ。好きな相手と結婚する、というと当たり前のことのようだが、恋愛と結婚が直接結びつくようになったのは日本では近代以降のことだろう。
人間に限らず生き物の多くは種の保存を生存原理としている。人間の場合は他の動物とちがって、生まれてから生殖能力を持つに至るまでの期間が異常に長い。生殖能力どころか自立できない姿で生後数年を過ごさなければならない。そのために、種の保存を担うはずの無能力な個体が成長して自立するまで守り育てる仕組みが必要とされるのである。その仕組みが家庭であったり、社会であったり、国家であったりする。個人にとってみれば、恋愛だの結婚だのは一大事かもしれないが、種としてみれば、そこに必然性は無い。つまり、結婚相手が好きとか嫌いとか、家庭が円満であるとか不和であるとか、というようなことは取るに足らないことなのである。
もちろん、生存に適した環境にあるほうが、種の保存には都合が良い。絶え間なき闘争で生命が脅かされるよりは、平和に生産性を追及するほうが具合が良いのだろうし、ストレスに苛まれるよりは、精神的に平穏であるほうが、生産活動に集中できてよいのだろう。しかし、物事には適切な規模というものがある。今の人類は地球という環境のなかで、果たして適切な規模なのか。
源氏物語から話が飛躍するようだが、源氏物語が1000年もの年月を経て今なお存在感を放ているのは、そこに描かれている男女の物語に普遍性があるからということなのではないだろうか。男が女を求め女が男を求めるという直線的な構造のようなものが基本にあり、そこに「恋愛」という釈明を設けて家庭の生成を正当化させるのが、我々が生きている社会なのではないか。源氏物語の時代、文字の読み書きができる社会階層にとっては、天皇を巡る物語が身近であったので、あのような物語になったのだろう。あの時代、恋愛も権力構造も、そして国家という存在をも、男女の関係を軸に描写できる程度の社会の規模だったということだったということだ。
ところで、この夏に岩波文庫の「古今和歌集」を読み始めた。もともと和歌に興味が無い所為もあるのだろうが、あと一息で読了というところまできているのだが、なかなか進まない。古今和歌集は醍醐天皇の勅命によって撰進された最初の勅撰和歌集、つまり国家プロジェクトだ。その内容は、圧倒的に恋歌である。このことも読み進むことを遅らせている理由のひとつだ。和歌というのは、そこで語っているエッセンスは「花がきれいだ」とか「紅葉が美しい」というような自然を賛美したものと、「あなたがすきです」という恋心を表現したものだ。和歌に関しては宮中行事に「歌合せ」というものもある。これは男性チームと女性チームに分かれて互いに歌を送りあう、という宮中公務だ。今でも形式的なものが残っていて、その様子が報道されたりするが、もともとは夜を徹して行われたものだ。そして、和歌を上手く作ることができる能力というのも、宮中に生きる人々の出世に大いに影響したのだという。
「きれい」「すき」「やりたい」というような単純なメッセージを、どれほど古今東西の文物や美辞麗句に乗せ、しかもそれを三十一文字という形式にまとめて表現するか、というのは、確かに深い教養が求められることではある。しかし、そのことに莫大なエネルギーを費やさねばならなかったということの背後にあるものは何だったのだろう。そして、その背後にあるものが現代の社会を動かす基本原理のようなものと同じなのか、異質なのか。
確たる考えがあるわけではないのだが、私は人間の営みというものは、歴史を超えて継承される程度の至極単純なものに貫かれているような気がする。その単純なものを見失い、その単純なものが纏っている装飾やそれにまつわる枝葉末節に囚われたときに、とてつもない不幸に襲われるのではないだろうか。現代という時代が、その「とてつもない不幸」の真っ只中にあるような気がしてならない。