熊本熊的日常

日常生活についての雑記

だって好きだから

2010年11月30日 | Weblog
テレビも新聞も縁がないのだが、唯一定期購読をしている雑誌がある。定期購読と言っても出版社から送られてくるのではなく、行きつけの書店に取り置いてもらっている。その発売日が25日で、陶芸で書店の近くに出かけるついでに買ってくるのである。それで、12月号は今日入手した。

毎月同じくらい面白いというわけではないのだが、今回はあるドキュメンタリー映画の紹介にひきつけられてしまった。「ハーブ&ドロシー」というこの作品は、伝説的アートコレクター夫妻を取り上げたものだ。何が「伝説」かというと、夫妻が目をつけた作家は、その後、必ずといっていいほど人気化する。しかも、彼等はコレクターにありがちな大富豪、というのではなく、ごく普通の公務員夫妻だったのである。夫のハーブは郵便局員、妻のドロシーは図書館司書だったという。私の親よりも少しだけ上の世代で、とっくにリタイヤしているが、今でもお元気だそうだ。

ふたりが作品を購入する基準はふたつ。給料で買うことのできる値段であることと、1LDKの自宅アパートに収まる大きさであること。「いいか悪いか分からなかったけど、今まで誰もやらなかったところがよかったので買った」のだそうだ。もともとふたりとも趣味で絵を描いていたらしい。作家と共有できる言語を持っていたということだろう。その上で、よくわからないけど好きだから、買っちゃうのである。

購読している雑誌はひとつだけだが、メルマガはいくつか読んでいる。偶然なのだが11月25日に配信されてきた「武相荘だより」も面白かった。「武相荘のひとりごと」では

「正子が銀座の「こうげい」と言う着物の店を始めた頃のこと、品揃えは自分の好みに囚われてはいけないと殊勝に考えていたが、現実は自分が気に入って注文し、もし売れなかったら自分で買おうと、覚悟したものから売れていったので、自分が好きなものを人さまに勧めるのが、本当のサービスだと悟ったと言っておりましたが、なるほど正子が次郎の為に着物を仕立ててもらったり、取引のあったちょっと変わり者の、福田屋千吉さんという仕立て職人さんや、有名な婦人服のデザイナーも、良いものを創るコツは唯ひたすら、自分の好みの女性に似合うものを作って着せようと思って、物づくりをするだけだと言っていたそうです。」

とある。結局、相手に気に入ってもらおうと思えば、まず自分が気に入るようなものであることが必要で、その上で相手がどう思うか、ということなのだろう。自分が好きになれないものを人様に押し付けてしまうようでは、物事はうまく運ばないという、至極当然のことのように思える。おそらく現実の多くは、自分が好きか嫌いかということを通り越して、それが売れそうかどうか、儲かりそうかどうか、という飛躍というか焦燥というかガッツキのようなものがあるので、うまくいかないということなのではないだろうか。

同じく「武相荘だより」のなかに白洲正子の「月謝は高かった」が紹介されている。そこにも興味深いことが書かれている。骨董の真贋についてのことだが、それが書かれた当時、骨董の贋物による詐欺のようなことが横行して社会問題となっていたようだ。その社会問題についての記述がよい。

「それらについては私みたいな素人まで、いろいろ意見をきかれるが、一度も答えたためしはない。というより、そのたびごとに私は、このように答えることにしているのだ。
『骨董を買いもしないで、ただ興味本位で贋物本物を云々する近ごろの風潮を私は好みません。それは推理小説の興味と、なんら異るところはないからです。社会正義の名にかくれて、美術品とは縁もゆかりもない人達までさわぐのは、そのこと自体が贋物のように思われます』と。」

いつの時代も、ろくにわけもわからずに他人のやることを声高に騒ぎ立てる奴が多いものだ。わけがわからないからこそ騒げるのであって、わけがわかっていたら様々な可能性が脳裏をよぎって思わず知らず沈黙すると思う。文句ばかっり、愚痴ばっかりという騒々しい奴ほど不愉快なものはない。

自分のモノサシというものをしっかりと持ち、軸の振れない姿を、美しいと感じる。こう書くととてもシンプルなことのように見えるが、これほど難しいことは無いと思う。社会のなかで生きていれば、それこそ無数の雑音があり、そのなかで軸が振れないというのはよほどしっかりとしたモノサシでないと揺らいでばかりになってしまう。粛々と自分の「好き」を追求して、気付いてみたら「カリスマ・コレクター」なんていうのは恰好が良い。贋物以前に、贋物にすらなれない雑音ばかりの世の中だからこそ、そうしたものに惑わされずに淡々と自分の「好き」を求めていけるようになりたいものだと思う。