芸術新潮に「高橋みどりの食道楽」という連載がある。11月号の記事に頷きたくなる記述があった。「誰しも一人で生きる覚悟が必要な時代に、料理は気負いなく楽しみを与えてくれるツールになり得ると思うんです」というのである。人それぞれの考え方があるので、一概に料理が楽しいとは断言できないが、自分で物事を決めて、その結果を自分で受け入れるという人生の基本は、日々の生活のなかの料理という行為に凝縮されているのは確かだろう。何を作るかを考え、それが決まったら食材を選び、調理方法を考え、盛り付ける器も選び、器と料理の組み合わせを考え、出来上がった料理を頂き、後片付けをする。美味くても不味くても、それは甘受しなければならない。また、食材や器から全て手作りということは不可能ではないが、実際の生活のなかでは現実的なことではない。当然に、目の前にあるものの向こう側に広がる果てしない世界に思いを馳せることになる。ひとつひとつの食材がどこからどのように来たものなのか、器は誰が何を考えて作ったものなのか、調理方法はそもそもどのような文化に由来するのか、調理器具は何か、きりがない。料理というもの、あるいはそれを作るということに関しては、物事を考えるきっかけの宝庫のようなものである。しかも、それは生活をしている限り毎日続くのである。
昨日の続きになるが、そうした毎日の食卓に登場する道具立てのひとつとして、器もまた、考えるヒントの塊である。挨拶口上のなかにはそうしたことも盛り込もうかとも考えたのだが、あまり挨拶が長くなるのも妙だろうと考え、一応、昨日書いたようなものにまとめるつもりでいる。
ところで、この連載記事は、筆者が蒐集している昔の料理本を毎回一冊乃至二冊ほど取り上げ、それに纏わるエッセイと、そこに取り上げられている料理の紹介がセットになったものである。11月号で10回目になる連載だが、正直なところ、自分で作って食べてみたいと思ったものは殆ど無い。それでも、そこに書かれていることの背景に、生活というものへの健全な姿勢が感じられて、毎回楽しく読んでいる。
日々の食生活というのは、その人の生きることへの姿勢そのものであるように思う。私は2007年9月下旬から一人暮らしだが、例えば一週間という時間の単位のなかでは、家事のなかで炊事の割合が一番大きい。「割合」というのは費やす時間だけではなく、そのために振り向ける意識のようなものも含めてのことである。先日、「塩一トン」ということをここに書いたら、「相変わらずですね」というメールをいただいたが、変りようがない。生きることは食べることでもあるのだから、そこに思考の軸が無いというのは、生きることを考える必要に迫られていない恵まれた人くらいのものだろう。食に関しては、いくら言葉を費やすよりも、一緒に食事をしたり作ったりすることで、手っ取り早く相手の思考の一端をうかがい知ることができると確信している。実際に、気の置けない相手との会食や茶飲み話ほど楽しいことはないのである。
昨日の続きになるが、そうした毎日の食卓に登場する道具立てのひとつとして、器もまた、考えるヒントの塊である。挨拶口上のなかにはそうしたことも盛り込もうかとも考えたのだが、あまり挨拶が長くなるのも妙だろうと考え、一応、昨日書いたようなものにまとめるつもりでいる。
ところで、この連載記事は、筆者が蒐集している昔の料理本を毎回一冊乃至二冊ほど取り上げ、それに纏わるエッセイと、そこに取り上げられている料理の紹介がセットになったものである。11月号で10回目になる連載だが、正直なところ、自分で作って食べてみたいと思ったものは殆ど無い。それでも、そこに書かれていることの背景に、生活というものへの健全な姿勢が感じられて、毎回楽しく読んでいる。
日々の食生活というのは、その人の生きることへの姿勢そのものであるように思う。私は2007年9月下旬から一人暮らしだが、例えば一週間という時間の単位のなかでは、家事のなかで炊事の割合が一番大きい。「割合」というのは費やす時間だけではなく、そのために振り向ける意識のようなものも含めてのことである。先日、「塩一トン」ということをここに書いたら、「相変わらずですね」というメールをいただいたが、変りようがない。生きることは食べることでもあるのだから、そこに思考の軸が無いというのは、生きることを考える必要に迫られていない恵まれた人くらいのものだろう。食に関しては、いくら言葉を費やすよりも、一緒に食事をしたり作ったりすることで、手っ取り早く相手の思考の一端をうかがい知ることができると確信している。実際に、気の置けない相手との会食や茶飲み話ほど楽しいことはないのである。