菅野さんからのメールに、Aero Conceptの販売がイギリスで始まり、その最初の顧客がDuke of Westminsterだったということが書かれていた。今更Aero Conceptをセレブと呼ばれる人たちが手にすることには驚かないのだが、その名前が長いことには驚いた。Major-General Gerald Cavendish Grosvenor, 6th Duke of Westminster, KG, CB, OBE, CD, TD, DL, GCLJというのだそうだ。名前そのものより、それに付随する肩書きの類の所為で長くなっている「延陽伯」のようなものだが、伊達に名前が長いのではなく、イギリスはもとより、世界でも屈指の大富豪で、当然にそれ相応の鑑識眼を持った人だろう。
Aero Conceptというのは決して有名なブランドではない。しかし、知る人ぞ知る、とはこういうものを指すのだろう。既に内外の様々なメディアに紹介されており、菅野さんご自身もニューズウィーク日本語版の「世界が尊敬する日本人」のひとりに選出されている。しかし、どこにでも置いてあるような商品ではないし、原則として受注生産なので、誰もが気軽に手にすることができるものでもない。それでも、エリック・クラプトンのギターケースに使われていたり、F1の関係者が持ち歩いていたり、ユマ・サーマンがメイク用品を入れて持ち歩くケースとして使っていたりする。おそらく、ウエストミンスター公爵は、BENTLEYSというロンドンの店でその製品をたまたま目にして、それが気に入ったから購入した、というだけのことだろう。ここで注目すべきは、世間で喧伝されるような「マーケティング」だとか「ブランディング」だとか言うような、怪しげな「理論」などとは関係なく、真摯に真っ当な仕事をすれば、それを評価する真っ当な人がいるという、シンプルな世界があるということだ。
「マーケティング」だの「ブランディング」だのというような言葉の背後に、「楽して儲けよう」という狡猾さが潜んでいることが多いように感じる。さらに言えば、そこに客とか消費者を馬鹿にした態度が見え隠れする。所謂「名人」とか「匠」とか呼ばれる人の仕事のなかにも、「どうだ、すごいだろう」というような無邪気な見栄が感じられることがある。さらに言えば、その見栄の背後に、「この仕事がわからない奴は馬鹿だ」というような高慢さが見え隠れする。これでは技量がいくら高くても、人を感動させない。だから「ブランド」が必要になる。そうすれば有象無象が寄ってくるので、生計を立てることはできる。立てるどころか、大儲けもできるだろう。けっこうなことだ。
何がしかの才能があり、切磋琢磨して「名人芸」というような域の仕事をするようになれば、それを誇りたくなるのは極当たり前の人情だ。しかし、いくら高度な技巧であっても、これ見よがしに表現されると、そこにあざとさが出てしまうように思う。つまり、醜いのである。逆に、上手くもないが、真面目な仕事の美しさというものもある。理想としては、高度な技量を持ちながら、それを誇るというようなこともなく、さらりと人の心を打つ仕事をするというのが良い。醜いものは使う人に満足を与えないだろうし、美しいものは使う人に喜びを与える。有象無象相手にぼろ儲けをすることで自分の存在を確認するのか、たとえ限られた人が相手であっても、そういう人の喜びに自分の喜びを重ねるのか。結局はその人の生き方の問題だ。
どちらが良いとか悪いというようなことではない。どちらを自分が好ましいと感じるか、ということだ。ものづくりの分野では同じようなものを作りながらも「職人」と呼ばれる人達と「芸術家」と呼ばれる人達がいる場合がある。外から見れば「職人」と「芸術家」の区別というものは、作品の流通経路などに端的に表れるのだろう。しかし当事者は自分を「職人」と意識するのか、「芸術家」と認識するのか。私はそういうことはわからないが、永六輔の「職人」という本のなかに以下のような市井の「職人」の言葉が紹介されている。
「職人気質(しょくにんかたぎ)という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば、芸術家気取りです」(永六輔「職人」岩波新書 65頁)
「幼児の何事も無く笑う顔は、両親でない外ほかの人達にも満足を与える。この種の喜びを与え呉るる美術品を容易に造る人はいないか」とは、富本憲吉の言葉だ。私は人生の終盤を迎え、自分に残された時間の終わりが見えてきた。そうなってみると、ひとつでも多くの「何事も無い笑顔」に出会いたいとの気持ちが強くなってくる。どんなにささやかなことでもいい。どんなに短い時間でもいい。そういう笑顔に出会いたい。また、できることなら与えることのできる人間になりたいと思う。幼児の笑顔に出会うには、シンプルなことを大切にしないといけない。
Aero Conceptというのは決して有名なブランドではない。しかし、知る人ぞ知る、とはこういうものを指すのだろう。既に内外の様々なメディアに紹介されており、菅野さんご自身もニューズウィーク日本語版の「世界が尊敬する日本人」のひとりに選出されている。しかし、どこにでも置いてあるような商品ではないし、原則として受注生産なので、誰もが気軽に手にすることができるものでもない。それでも、エリック・クラプトンのギターケースに使われていたり、F1の関係者が持ち歩いていたり、ユマ・サーマンがメイク用品を入れて持ち歩くケースとして使っていたりする。おそらく、ウエストミンスター公爵は、BENTLEYSというロンドンの店でその製品をたまたま目にして、それが気に入ったから購入した、というだけのことだろう。ここで注目すべきは、世間で喧伝されるような「マーケティング」だとか「ブランディング」だとか言うような、怪しげな「理論」などとは関係なく、真摯に真っ当な仕事をすれば、それを評価する真っ当な人がいるという、シンプルな世界があるということだ。
「マーケティング」だの「ブランディング」だのというような言葉の背後に、「楽して儲けよう」という狡猾さが潜んでいることが多いように感じる。さらに言えば、そこに客とか消費者を馬鹿にした態度が見え隠れする。所謂「名人」とか「匠」とか呼ばれる人の仕事のなかにも、「どうだ、すごいだろう」というような無邪気な見栄が感じられることがある。さらに言えば、その見栄の背後に、「この仕事がわからない奴は馬鹿だ」というような高慢さが見え隠れする。これでは技量がいくら高くても、人を感動させない。だから「ブランド」が必要になる。そうすれば有象無象が寄ってくるので、生計を立てることはできる。立てるどころか、大儲けもできるだろう。けっこうなことだ。
何がしかの才能があり、切磋琢磨して「名人芸」というような域の仕事をするようになれば、それを誇りたくなるのは極当たり前の人情だ。しかし、いくら高度な技巧であっても、これ見よがしに表現されると、そこにあざとさが出てしまうように思う。つまり、醜いのである。逆に、上手くもないが、真面目な仕事の美しさというものもある。理想としては、高度な技量を持ちながら、それを誇るというようなこともなく、さらりと人の心を打つ仕事をするというのが良い。醜いものは使う人に満足を与えないだろうし、美しいものは使う人に喜びを与える。有象無象相手にぼろ儲けをすることで自分の存在を確認するのか、たとえ限られた人が相手であっても、そういう人の喜びに自分の喜びを重ねるのか。結局はその人の生き方の問題だ。
どちらが良いとか悪いというようなことではない。どちらを自分が好ましいと感じるか、ということだ。ものづくりの分野では同じようなものを作りながらも「職人」と呼ばれる人達と「芸術家」と呼ばれる人達がいる場合がある。外から見れば「職人」と「芸術家」の区別というものは、作品の流通経路などに端的に表れるのだろう。しかし当事者は自分を「職人」と意識するのか、「芸術家」と認識するのか。私はそういうことはわからないが、永六輔の「職人」という本のなかに以下のような市井の「職人」の言葉が紹介されている。
「職人気質(しょくにんかたぎ)という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば、芸術家気取りです」(永六輔「職人」岩波新書 65頁)
「幼児の何事も無く笑う顔は、両親でない外ほかの人達にも満足を与える。この種の喜びを与え呉るる美術品を容易に造る人はいないか」とは、富本憲吉の言葉だ。私は人生の終盤を迎え、自分に残された時間の終わりが見えてきた。そうなってみると、ひとつでも多くの「何事も無い笑顔」に出会いたいとの気持ちが強くなってくる。どんなにささやかなことでもいい。どんなに短い時間でもいい。そういう笑顔に出会いたい。また、できることなら与えることのできる人間になりたいと思う。幼児の笑顔に出会うには、シンプルなことを大切にしないといけない。