熊本熊的日常

日常生活についての雑記

娘へのメール 先週のまとめ

2008年11月17日 | Weblog

元気ですか。

もう11月も後半に入り、去年の今ごろは商店に並ぶ商品がクリスマスを意識したものに変わり始めていましたが、今年はまだのようです。不況で在庫の切り替えが遅くなっているのか、クリスマスに浮かれているお気楽な気分になれないのか、あるいは別の理由があるのか、よくわかりません。

私が普段利用しているスーパーは、先週、中間決算を発表していましたが、好決算だったようです。かなり早い段階から同業他社に先駆けて低価格帯の品揃えを充実させたのが功を奏したようです。利用者の立場からすれば、日頃利用している商店の経営が良いということは、そこに並ぶ商品の回転も順調ということなので、鮮度の高い商品を手にする確率が高くなるということでもあります。たいへん結構なことです。

先週も読了した本がありませんでした。映画も観ませんでしたが、You Tubeで「やっぱり猫が好き」を観ました。これは今から20年近く前にフジテレビが深夜枠で流していたシチュエーションコメディです。三谷幸喜とか木皿泉といった、今はベテランと呼ばれる脚本家たちが駆け出しの頃の作品です。やはり売れるようになる脚本家というのは、どのような作品でも才気というものが溢れているように思います。

この週末は、土曜日にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へでかけてきました。ここは美術工芸品の博物館です。企画展は人気がありますが、常設展のほうはそれほど人気がありません。しかし、私にとっては、その人気のない常設展示に興味深いものが多いので、まるで自分だけの美術館のように楽しむことができて大好きな場所です。ここも規模の大きな美術館ですので、ひとつひとつの展示を見学すると1日がかかりになりますから、毎回、自分でテーマを決めて観に行くようにしています。既に何回も足を運んでいる美術館ですので、今回は単純にこれまでに訪れていない部屋を観てきました。主に英国の工芸品のコーナーとナポレオン時代のコーナーです。英国工芸品のほうは、展示物のいくつかが、よりによって日本へ貸し出されており、来年夏頃まで戻ってきません。日本でどのような企画に使われるのか知りませんが、東京では東京都美術館で展示されるようです。東京の他、名古屋や京都の美術館を巡回するのだそうです。まだ、日本での展示は始まっていないようなので、機会があれば訪れてみたいと思います。今日も3時間ほどかけて観て回ったのですが、まだ、観ていない部屋があるので、帰国までにあと何回か来るつもりです。

学校生活のほうは楽しく過ごすことができていますか? 何かやりたいことがあって、必要なことがあれば遠慮せずに言ってきてください。できる限りのことはします。また、帰国してから君と話す機会はいくらでもあると思いますが、今敢えて言いたいことは、自分の好きなことというのがあるというのは、やはり幸せなことだということです。たくさん人と話をしたり、本を読んだり、映画を観たりして、とにかくいろいろな人やものに触れるのが、人には必要なことだと思います。

あと2ヶ月ほどで帰国しますが、何か土産で欲しいものはありますか? 自分で持ち帰ることのできる荷物は30キロまでなので、重いものや嵩張るものは要望に応えることができないかもしれませんが、努力はします。また、急ぎでなければ引っ越し荷物のほうに含めて送ることもできますが、こちらはそろそろ量を確定しなければなりません。そのような状況ですので、なにかあれば、そろそろ考えておいてください。

では、風邪などひかぬよう健康に気をつけてください。


文明

2008年11月16日 | Weblog
昔、初めてこの国に来た時、鉄道の駅に改札がないのを見て感心した。当時、ドイツのアウグスブルクという町で通算4ヶ月間ほど独居老人宅に居候をさせてもらったり、欧州のあちらこちらを旅行したのだが、どの国も同じようなもので、地下鉄にさえ改札がなく、バスや市電も乗り降り自由というところもあった。いちいち確かめなくとも、人間たるもの規則を守るのは当然、という思想が背後にあるような気がして、これぞ文明だと感心したのである。

今、ロンドンでは多くの駅に自動改札機が設置されている。街中至る所に監視カメラが設置されているのは既に有名である。日々の暮らしの基盤となる考え方が性善説から性悪説に転換してしまったようだ。文明は結局滅びてしまうものなのだろうか。

実生活の感覚として、守られなければ秩序が維持できない規則と、問題が生じた時にのみ参照するべき規則というものがあるように思う。敢えて例を挙げることはしないが、何が何でも規則は守られなければならない、というのでは実際の生活が円滑に進まないというのは感覚として理解できるだろう。また、規則違反者の取り締まりを徹底するための社会的コストと、違反者をある程度放置することによる社会的コストとのバランスも考慮する必要があるだろう。巨額の費用を投じないと公序良俗を守ることができない状況にあるということは、その社会がもはや人間の暮らしに耐える器ではなくなってしまっているということだ。

最近、日本で大麻の所持で逮捕・起訴されるという事件が相次いでいるようだ。大麻が煙草に比べて健康への害が少ないのだから、その所持を禁止する法律のほうがおかしい、と主張する人もいる。確かに煙草が合法で大麻が違法であることの根拠が明確にされていないというのは事実だろう。英国では2004年から大麻の個人使用は事実上適法となっているし、似たような国は他にいくらでもあるようだ。同じ行為が国によって違法であったり適法であったりするということは、法の根拠に何か問題があるということだろう。しかし、悪法も法なり、ともいう。法のほうが間違っていて、自分の考えのほうが正しいというのなら、適法化へ向けて署名集めをするなり、国会議員にでもなって適法化へ向けた活動をするなり、堂々と行動したらよいのではないか。それが文明国の国民の姿勢というものだろう。逮捕されて涙する無様を晒すなら、おとなしく法に従うのが、やはり文明というものだ。

笹野高史

2008年11月15日 | Weblog
寅さんの映画はけっこうたくさん観ていたつもりだったが、そこに出演していたことに気付かなかった俳優がいた。「武士の一分」ではさすがに映っている時間も台詞も多かったので印象に残っていた。「パッチギ!」や「おくりびと」でも重要な役を演じていた。今日公開の「ハッピーフライト」のトレイラーをネットで観ていたら、「おっ、いる!」と嬉しくなってしまった。

この人のインタビューをいくつか読んだことがあり、そのなかで「どんな人にもかっこいい瞬間があり、それを演じてみせたい」というような意味のことを言っていたのが印象に残った。演技や俳優という職業を何も知らないので、あくまで一観客の立場で申し上げれば、所謂「名優」というタイプではないように思う。風景に溶け込んでいる存在であり、当然それも俳優が演じているのだが、そうとは気付かせない技量を感じさせる人なのだと思う。それは映画という作品を作る上でとても大切なことだろう。風景にリアリティがなければ、作品に質感が伴わないし、そもそも作品として成立しない。

映画の風景として登場する市井の人々が、どこかぎこちなかったり頼りなげだったり、あるいは無愛想であったり妙に杓子定規であったりして、しかもそこに「ああいうひと、いるんだよねぇ」と思わせるような現実味があればあるほど、観ている人の多くの脳裏には残らないだろう。その残らない存在を演じるというのは、思いの外難しいことだと思う。そういうところにこだわり続ける職人のような仕事ぶりに、私は憧れを感じる。

マンゴー食いだめ

2008年11月14日 | Weblog
二三日前の新聞に、日頃愛用しているSainsbury’sの中間決算に関する記事が載っていた。気になったので、Sainsbury’sのサイトから決算書類をダウンロードしてみたら、今年上期は前年同期比7.6%増収で16.9%営業増益、既存店ベースの売上は休日調整後で同3.9%増である。15四半期連続で増収増益を続けているとも書いてある。今上期の売上規模は107.5億ポンド、今はポンドが暴落しているが、仮に1ポンド200円とすれば2兆1,500億円である。先月発表されているセブンアンドアイのこの上期の売上が2兆8,610億円、イオンが2兆6,069億円だ。英国の人口が日本の約半分であることを考えれば、Sainsbury’の存在感は、日本でのヨーカドーやジャスコ以上のものであることが想像できるだろう。

先日のこのブログ(11月11日「統計と現実」)で「それほど賑わっているとも思えない」と書いたが、私の見ていないところでしっかり稼いでいるのである。稼ぐ、と言えば利益率が気になるところだが、この上期の営業利益率は3.13%で前年同期の2.88%から上昇している。この利益率の上昇を大きいと見るか、それほどでもないと見るかは見る人の立場によって違うだろうが、11日に書いたように、この国の小売市場全体は低迷している。そのなかでこれだけのパフォーマンスを残すというのは特筆に値すると思う。ちなみに今上期のセブンアンドアイの営業利益率は5.2%で、イオンが2.3%である。

小売市場全体が縮小するなかで中核業者の収益は拡大している。ということは、何が縮小しているのか、言わずもがなであろう。それがバブルの崩壊というものだ。日本もかつて経験したことである。

ところで、ロンドンでの生活も残り少なくなったので、ここでの生活でしか経験のできないことを金をかけずに実践したい、というようなことを以前に書いた。そのひとつはマンゴーを食べることである。こちらのスーパーの果物売り場で圧倒的なシェルフシェアを握っているのは季節に関係なくリンゴ、オレンジ、バナナ、洋梨である。これに続く存在感を示しているのがマンゴーと苺だ。こちらのマンゴーは、現在店頭に並んでいるのはブラジル産が多く、サイズは2歳児の片肺くらいだ。それなりの値段のものを買えば、たぶん例外なく美味しいのだろうが、私のなかでは1個1ポンドを基準にして、それより安いものしか買わない(買えない)。当然、あたりはずれというものがある。はずれると半分は食べることのできる状態にはない。あたれば頬が落ちるのではないかと心配になるほどだ。昨日の仕事帰りに住処近くのASDAで買った2個で1ポンド64ペンスのブラジル産マンゴーは大当たりだった。しかし、欲というのは際限がないもので、こうしてブラジルの大マンゴーを食べていると、昔インドを旅行したときにカルカッタの言葉の通じない市場で買った腎臓サイズのとろけるような果肉のマンゴーも食べたくなる。

単細胞

2008年11月13日 | Weblog
米国では銃の販売台数が伸びているらしい。読売新聞のサイトに10月29日付けで記事が掲載され、翌30日付の朝刊にも掲載されたそうだ。FBIのサイトを見たが、確かにそういう内容のプレスリリースはあるものの、肝心の統計が無い。その後、この記事のことを朝日のアエラがコラムのなかで取り上げ、さらにCNNも11月12日付でサイトに記事を出しているので、本当なのだろう。

米国では銃を購入する際に、FBIの審査を受けることが義務づけられているようだが、この審査を受けた人が今年1月から9月までの9ヶ月で847万人いるそうだ。これは前年同期比8%増とのことである。さらにオバマ候補が大統領に当選した11月3日から9日までの週だけで、その審査の申請者が37.4万件と前年同期比49%増となったという。

これはオバマ新大統領が銃規制に積極的であるため、規制強化前に銃を確保しようとする動きが顕在化したということがひとつの理由である。もうひとつは景気悪化に伴い、治安の悪化を懸念して自衛のために武器を家庭に備えるという動きがあるのだそうだ。

米国というところは、西部劇に描かれた頃と精神的にはあまり変わっていないらしい。自分の身は自分で守るのは結構だが、武装することが新たな犯罪の下地になるのも事実だろう。武器を持てば使ってみたくなるのが人情というものだ。食い詰めた奴が銃を手に人を襲い、そのような事態を心配する人が自衛のために銃を手にする。民主主義が正義だと信じる人たちの国でも、結局は食うか食われるかという問題解決に帰結する。知恵はいらないし、知恵の無い民主制は衆愚制に堕落する。好むと好まざるとにかかわらず、そういう国が世界の経済と政治の中核を成している。人類とは、結局この程度のものなのである。

2008年11月12日 | Weblog
たいがいロクな夢を見ないのだが、今朝のはすごかった。夢なので前後の脈絡は全く無いのだが、「西部警察」の世界だった。自分が職場にいて、昼ご飯を食べに外に出ようとすると、周囲が武装した警官に囲まれているのである。何故か自分は人質だったらしく、建物から出たところを何人かの警官に両脇から支えられて救護所のようなところに連れていかれる。別の私服の男性がそこにいて、建物の中にいる犯人の様子などを尋ねられるのである。何故か犯人は社長で、社員を人質にして社屋に立て篭ったらしいのだ。そこへ、犯人の要求だと言って、割烹着姿のおばさん2人がトンカツ弁当を大量に持ってきた。そこでその場にいた人たちの関心が弁当に向かった隙に、そこにあったワゴン車を自分で運転して逃げ出すのである。走っているうちに、工事現場のようなところに迷い込み、前後をコンクリートミキサーに挟まれて、警備員の誘導に従ってどきどきしながらのろのろ運転しているところで目が覚めた。

夢はすぐに忘れてしまうので、起きてすぐに、さっきまで見ていた夢の内容をメモしておいた。それを見ながらこうしてブログを書いている。夢というのは、覚めてみれば不思議な光景なのだが、今日の夢はひとつひとつのシークエンスに心当たりがある。そういう納得できる夢は、なんとなく安心感があってよい。

統計と現実

2008年11月11日 | Weblog
BRC-KPMG Retail Sales Monitorという統計によると、英国の10月の小売売上が既存店ベースで前年同月比2.2%減となり5ヶ月連続で減少、全店ベースでも同0.1%減となり、2005年4月以来のマイナスとなったそうだ。小売売上が何ヶ月も連続して前年比で減少を続ける現象は日本で経験しているので自分としては珍しいことではない。ただ、統計と生活実感の差というものはこちらのほうが大きいような気がする。

普段、自分が買い物に利用しているのは大手スーパーのSainsbury’sとASDA、中国系スーパーのSeeWooである。このうち最も利用頻度が高いのは通勤経路上にあるSainsbury’sだ。この店は昨年の今ごろ、24時間営業になったが、それ以前も以降もそれほど賑わっているという印象は無い。ただ、このところセールが目立つ。セール自体は恒常的に行われているが、対象商品の範囲が格段に拡大したように感じられる。ただ、それで客が増えたとも思えない。ASDAは利用するとすれば週末なのだが、いつも混んでいて、結局ここで買い物をするのを諦めてSainsbury’sへ行ってしまうこともしばしばである。ここが賑わっているのは、微妙な差でしかないと思うのだが、商品の価格が全般に安いのである。この店が入居しているショッピングセンターが近くのSainsbury’sのそれよりも大きく、集客力があるという事情もあるのかもしれない。SeeWooは扱っている商品が独特なので、週末にしか客が入らない印象がある。少なくとも私が普段利用しているこれらの店の店内の様子に大きな変化があるようには見えない。

英国には大手スーパーのチェーンとして、ここに挙げた2社の他にWaitrose、Marks & Spencer、Tesco、Icelandなどがある。それぞれに対象としている客層に微妙な差異がある。WaitroseやMarks & Spencerは商品の価格帯が他に比べて一段上である。私は週末に出かけた帰りに市内の大きな駅にあるエキナカのMarks & Spencerを利用するのだが、商品の陳列棚を見て思わず声を上げてしまうこともある。「高っ!」と。東京に帰った時に昔の職場の同僚でロンドン駐在経験者と話をすると、彼等が利用していたのはWaitroseやMarks & Spencerなのである。商品の価格という点では微妙な違いしかないのだが、Tesco、Sainsbury’s、ASDAの間にも客層の違いはある。例えば、私が利用しているSainsbury’sとASDAの間は数百メートル程度の距離しか隔てていない。しかし、客の皮膚の色が店によって明確に違うのである。どちらも大きな駐車場があるが、そこを突っ切るときに、Sainsbury’sでは車が停車して歩行者を通してくれることが多いが、ASDAではそのような光景は殆ど見られない。

チェーン毎の業績の違いがどの程度あるものなのか調べたことはないが、可処分所得に占める生活必需品消費の割合は所得が低いほど高くなるはずだ。とすれば、低所得層御用達の店には需要の下方硬直性があるのではないだろうか。一方で相対的高額所得者は所得環境の変動が消費行動に与える影響が大きいと思われる。ホンマもんの金持ちは、そもそもスーパーチェーンでは買い物をしないだろう。

とすると、私の日常からは景気の変化は読みづらいということになる。尤も、読みたいとも思わないのだが。

月曜日

2008年11月10日 | Weblog
月曜日は慌ただしい。私が住んでいる地区では毎週月曜日がゴミの収集日である。朝8時半頃に資源ゴミの収集車が回ってきて、その後に生ゴミの収集が行われる。どの家の前にもプラスチック製の大きな四角いゴミ箱が置かれている。周囲を観察していると、大概はゴミが出る都度、その外のゴミ箱に捨てている家が多いようだ。もう今の時期は問題ないのだが、夏場は悪臭がする。私は東京で暮らしていた時の習慣を引き継ぎ、収集日の朝に外のゴミ箱にゴミを出す。自分一人だけが気を使っても何も変わらないのだが、他人に迷惑をかけない心がけというものは大切にしたいと思っている。

月曜日は地下鉄が遅延することが多い。先週も、今日もダイヤが乱れていた。これは、おそらく週末に行われる保守作業がずさんである所為だろう。何のための保守作業なのかよくわからない。ちなみに夏時間が終わった最初の週は月、水、木にダイヤが乱れ、このうち木曜は朝も夜も両方だった。先週は月曜だけ。今週は今日、月曜に信号機故障による遅延が朝も夜も発生していた。さすがにもう心づもりがあるのだが、それでもうんざりする。

月曜日は職場のPCソフトがアップグレードされていることが多い。今日は、そのためにバグによる障害が発生していた。深刻なものではなかったので、業務に大きな影響はなかった。

月曜日はアイロンがけをする。日曜日に一週間分まとめて洗濯をするので、月曜にアイロンがけをするのである。毎週やっているのに、アイロンがけだけは進歩が無い。だいたい1時間ほどかけてシャツを6枚仕上げる。このスピードは上がらない。

特に月曜に、というわけではないが、今日、出勤途中で配っているフリーペーパーに自分の勤務先が英国法人の業務を縮小するという記事が載っていた。形の上では自分は英国法人に所属しているが、実態としては日本法人の業務を担当している。既に日本法人では10月中旬と11月最初の週に人員削減が実施されている。

月曜日が終わるとほっとする。一週間が終わったような心持ちである。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年11月10日 | Weblog

元気ですか。

中間試験は、自分なりに納得できる結果だったようですね。そういうことの積み重ねはとても大切なことだと思います。自分の課題が何なのかという問題意識を持ち、それをどのようにして克服するのかということを考えながら試験に取り組むと面白いのではないでしょうか。それは学校の勉強に限ったことではないので、「考える」ということを習慣づけるようにするとよいと思います。

「乱」の前に「リア王」を読むほうがいいですよ。あと黒澤作品では「蜘蛛巣城」が「マクベス」に基づいて作られています。逆に、黒澤作品を基に作られた外国映画も数多く、主なものを挙げると以下の通りです。

「隠し砦の三悪人」→「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)
「七人の侍」→「荒野の七人」(ジョン・スタージェス監督)
「用心棒」→「ラストマン・スタンディング」(ウォルター・ヒル監督)
     →「荒野の用心棒」(セルジオ・レオーネ監督)

また、黒澤映画のなかのシーンを真似たもとのしては、以下のようなものがあります。

「蜘蛛巣城」→「未知との遭遇」(スティーブン・スピルバーグ監督)
「用心棒」→「レイダース 失われたアーク」(スティーブン・スピルバーグ監督)
「天国と地獄」→「シンドラーのリスト」(スティーブン・スピルバーグ監督)
「乱」→「プライベート・ライアン」(スティーブン・スピルバーグ監督)
「悪い奴ほどよく眠る」→「ゴットファーザー」(フランシス・コッポラ監督)
「七人の侍」→「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」(ピーター・ジャクソン監督)

ところで、君の好きな雑誌というのは何ですか? そもそも中学や高校の図書室にある雑誌というのはどのようなものがあるのですか? 前にも書きましたが、私は中高生時代はあまり本や雑誌を読まなかったので、そのあたりの感覚がありません。単に好奇心ですが、どのようなものがあるのか教えてください。

先週は読了した本も、観た映画もありません。週末にキューというところにある王立植物園に出かけてきました。ここは「キュー・ガーデン」と呼ばれており、世界遺産にも登録されています。広大な敷地に、植生を工夫して様々な草木が植えられています。急に寒くなってしまったので、日本でいう「秋」の風景はないものかと思い、出かけてきました。今、まさに紅葉の時期で、園内が燃えているような感じです。この植物園には日本庭園と日本の古民家もあります。日本庭園のほうは1910年の日英展覧会の時に作られたもので、古民家は2001年の英国における日本年に、日本のNPOが寄贈したものです。どちらも海外にありがちがいい加減な日本風まがいものではなく、きちんと作られたものです。園内には他に外国の建物は無く、日本だけが特別扱いです。このようなところに日英の関係の歴史的な深さが感じられます。

東京はこれから寒さが本格化するのでしょうから、風邪などひかぬよう健康管理に注意してください。

では、また来週。


豚もおだてりゃ木に登る

2008年11月09日 | Weblog
Kewの鉄橋を描いた絵のことがずっと気になっている。手もとにあるスクラップブックやら雑誌を探したがみつからず、ネットで検索をかけても引っ掛からない。大英博物館かV&Aで見かけたのだろうか?大英博物館は結構頻繁に展示物の入れ替えが行われるので、もし、そこで見たのだとしたら、よほど運が良くないと二度とお目にかかれない。V&Aは日本の物に関する限り、展示があまり変わらないので、今度行って見てこようと思う。

普段は話し相手がいないことを何とも思わないのだが、こういうときは「ほら、あれ、なんだっけ?」と尋ねることのできる相手がいたらいいのにと思う。薄っぺらな世間話の相手には不自由しないが、そんなものは何百人いたところで意味はない。たまに「ひとりで寂しくないですか?」などと尋ねる人がいるが、寂しいなどというのは、精神生活が貧困だからこそ抱く感情である。その貧困な精神生活が改善されない限り誰と一緒にいても寂しさは消えない、ということに気付かない愚かしさが、それこそ寂しいではないか。

若い頃ならいざしらず、いつ死んでも不思議ではない年齢になってから、話せば話すほどいらいらさせられるような奴とは付き合いたくない。歳を取ると、会話をしていて、話の通じる相手なのか永遠にわかり合えない相手なのかの区別が、比較的容易に直観できるようになるものだ。行間を読むことができない奴にそういう芸当を求めても、無理なものは無理なのである。通じない相手は、適当に話を合わせて、やり過ごしておくに限る。

雨天結構

2008年11月08日 | Weblog
朝から小雨が降っていたが、晴天を待っていてはいつまでも出かけることができないので、今日はロンドンの西の外れにあるKewへ出かけてきた。Kewと言えば世界遺産にも指定されているKew Gardensの王立植物園が有名だ。しかし、今回Kewを訪れたのは明治時代に浮世絵に描かれたKewの鉄橋を見るためだ。

その浮世絵だが、どうしても作者を思い出すことができず、気分が悪い。縦長の図で、橋の袂から川中へ向かって鉄橋を見上げるような構図である。確か、夜景だとおもったが記憶が定かでない。ただ、このKewでテムズ川にかかる鉄道の鉄橋を描いたものであることに間違いない、と思う。

住処を出るときは止んでいた雨が、最寄のWestcombe Parkへ着いた途端に再び降り始めた。Cannon Street駅で地下鉄に乗り換えSouth Kensingtonで同じホームを発着する別の行き先の電車に乗り換えてKew Gardensまで行くのだが、これがなかなか来ない。住処を出たのが午前10時少し前で、Kew Gardens駅に着いたのが11時半を回っていた。

見たかった鉄橋は、その地下鉄が渡った、まさにその鉄橋である。駅を出た時は雨が降っていたが、鉄橋に着く頃には止んだ。以前にこのブログにも何度か書いているが、テムズ川に沿ってThemes Pathという遊歩道が整備されている。このあたりの川沿いも歩道が整備されていて、雨だというのにジョギングの人や犬を連れて散歩する人がひっきりなしに往来している。尤も、雨だからといって外出を控えていたら、ここでは外出することができなくなってしまう。

浮世絵に描かれていた鉄橋はまさにこの鉄橋だった。「地下鉄」と書いたが、ここを走っているのは地下鉄District LineのRichmond Branchという線とLondon Overgroundという郊外電車である。District LineはEarls Courtから西は地上を走行する。ロンドン中心部に比べると駅間の距離も長くなるので、ボロボロの車体を軋ませながら景気良く走るのだが、Turnham Greenを出て支線に入ると速度が落ちる。GunnersburyとRichmondの間をOvergroundと共用しているので、線路の切り替えや信号待ちなどがある所為だろう。鉄橋はGunnersburyとKew Gardensの間に架かっている。

ロンドンの地下鉄はどの線も第三軌道方式により集電しているので架線が無い。だから、見た目はその浮世絵が描かれた頃とあまり変わらない。鉄橋の架け替えがあったかもしれないが、印象としては、やはり当時のままのような気がする。鉄橋の袂に立った瞬間、「おぉ、これ、これ」と妙に嬉しい。このまま夜景も見てみようかと思ったが、また雨が降り出したので、取り敢えず川縁を上流のKew Bridgeへ向かう。

今度は雨脚が強いが、それも長くは続かず、Kew Bridgeに着くころには小降りになり、橋を渡って反対側へ渡る頃には止んだ。この橋は石で造られた道路橋でA307という通りが走っている。英国では自動車道にM、A、Bというアルファベットと数字が振られている。Mが付いている道路は高速道路。Aは主要幹線道でBが一般道だ。つまりKew Bridgeはかなり立派な橋だということが想像できるだろう。片側2車線ずつが走り、往来も激しい。3つのアーチで川を跨いでおり、その佇まいが美しい橋である。

日も射してきたので、このまま天気も落ちつくかと思い、橋を再び渡ってKew Gardensへ向かう。橋を渡って数分のところにKew GardensのMain Gateがある。実はMain Gateは小さな出入口だ。Kew Gardensには4つの出入口があり、一番大きなものはVictoria Gateである。この門の近くにカフェや売店のある建物があり、園内を巡る連結自動車もここを起点にしている。入園料は13ポンド。世界遺産に指定されている所為か「王立」とは思えない強気の値付けである。

園内に入った途端に雨が降り始めた。ここでも真っ先に見たかったのが、池に架かるSackler Crossingという橋である。これは英国の建築家John Pawsonの設計によるもので2006年5月17日から使用されている。それまで写真でしか見たことがなかったのだが、S字を描いて向こう岸に架かる姿は美しい。先月、RIBA (The Royal Institute of British Architects)から2008年のStephen Lawrence Prizeを受賞した。公園のなかの池にかかる橋を、これほど格好良くできるものかと感心する。写真で見た姿も勿論美しいのだが、写真ではわからない柵の作りが面白い。

ちょうどこの橋に辿り着いたところで雨脚が強くなり、傘をさしていても、それが殆ど役に立たない状況になってしまったので、橋の袂の大きな栗の木の下で、橋を眺めながら雨宿りをすることにした。天気が悪いのと入場料が高い所為だと思うのだが、園内は空いている。おまけに酷い雨である。30分ほど橋を眺めていたが、誰も通らない。ただ、時々、鴨が池からひょいと橋に上がり、歩いて横断してひょいと池に戻る。橋の下も、鴨がすーっと通る。まるで橋が池に溶け込んでいるかのようだ。ようやく雲に切れ目が見え、天気雨のような状態になると、人が通り始めた。人は勿論、橋の上を橋に沿って歩く。同じ橋の上を鴨が横方向に、人が縦方向に歩く。そこだけ動線で布が織られているようだ。また、天気雨というのがよい。木漏れ日が雨粒に反射して美しい。池とその周辺の木立を舞台にした光と雨のページェントだ。

ほどなく雨はあがり、時折陽がさすようになる。栗の木の下を出て、S字の橋を渡り、目指すのはTreetop Walkwayという橋だ。今日は橋ばかりである。これは木々の間を縫うように、地上18メートルの高さに造られたものである。鉄製の柱で支えられているのだが、木の上を渡り歩いているかのようである。足元は金属製のネットだが、所々へこんでいたり、留め金が外れている箇所がある。今日も何人か見かけたが、常軌を逸した肥満の人も登ってくる。事故があってはならないことだし、それ相応の保守点検は日常的に実施されてはいるのだろうが、不安を感じないわけでもない。

この植物園には1862年竣工の温室がある。竣工当時は世界最大のガラス建築だった。2階部分が回廊になっていて、高い位置から植物を観察することができるようになっている。この回廊はGlasshouse Walkwayと名付けられている。さきほどの Treetop Walkwayもそうだったが、上から木々を見下ろすというのは新鮮な風景である。

温室を出て、日本庭園を見る。海外の「日本庭園」と呼ばれるものには首を傾げたくなるものも少なくないのだが、ここは上手くまとめられている、と思う。テーマとなっているのは「禅の精神」なのだそうだ。少し小高くしたところに寺の門を配し、その下に枯山水、それらを囲むように通路が付けられて回遊式庭園になっている。寺の門だけがぽつんとあるのはどうなのかとも思うのだが、京都の西本願寺の勅使門を5分の4の大きさで再現したもので、細工や意匠は立派なものである。

日本庭園の近くには中国風のパゴダがある。高さ50メートルで、周辺の植栽とのバランスが良い。英国では18世紀半ばに東洋の物を配した庭園が流行したそうだ。どうりで風景が熟れている。

一旦Victoria Gate近くのカフェに寄り、ケーキとお茶を頂く。一服したところでMinka Houseを見に行く。これは日本民家再生リサイクル協会というNPOが2001年の英国における日本年に合わせて寄贈したものだ。1993年まで実際に使われていたものを移築したそうだ。古民家は骨組みが現在の木造住宅とは比べ物になら無いほど太くしっかりしている。雨が多い所為か2001年に竣工した割には屋根の傷みが酷いように見えた。

まだ4時前だが、もう辺りは夜の帳が下りようとしている。冬時間に入った10月26日から閉園時間は1時間45分繰り上がり午後4時15分である。入場した時と同じMain Gateから外に出て、来る時とは別の経路で帰宅する。Kew Bridge駅からSouthwestern RailでLondon Waterlooに出て、そこからSoutheasternでWestcombe Parkへ戻る。途中WaterlooのエキナカにあるMarks & Spencerで買い物をしたので、住処に戻ったのは午後6時少し前だった。

安値更新

2008年11月07日 | Weblog
通勤途上で目にするSainsbury’sのガソリンの看板が93.9になった。昨年10月にこちらへ引っ越してきてからの最安値を更新した。以前にもこのブログに書いたようにガソリンだけではなく、大型小売店で販売されている多くの商品の値段が下がっている。一方で、ポンドも対主要通貨で歴史的低水準である。消費者物価も為替も下がる状況が中長期的に続くはずはない。いずれ少なくともどちらかが上昇を始めるはずである。既に9月の時点で、来年1月からのロンドンの公共交通機関の運賃が実質的に値上げされることは決定済みである。商業部門のコスト削減にも限界があるだろうから、需要喚起のための値下げがいつまでも続くものでもないだろう。今は、ガソリンに象徴される原燃料価格が低下しているからいいようなものの、これとていつまでも続くものでもあるまい。

物価が下がるのは有り難いことだが、先日困ったことがあった。普段、料理や飲料に使う水はミネラルウォーターで賄っている。いつも近所のスーパーで2リットル入のボトルが4本セットになったものを購入している。その日も水を買いにSainsbury’sへ出かけた。水の並ぶ棚を見て、どうしたものかと悩んでしまった。いつも買う4本パックが無く、代わりに6本パックでより割安なものが並んでいたのである。値段という点では有り難いことなのだが、6本パックを抱えて住処へ戻るのは難儀である。自慢じゃないが、私は金と力が無い。仕方ないので、5リットル入のペットボトルを買った。後日、また水を買いに同じ店に行ったら、今度は4本パックが復活していた。あれは客の要望があった所為なのか、単に偶然在庫が切れただけだったのか。似たようなことは他にもあるのだろうか?

自意識過剰

2008年11月06日 | Weblog
BOEが政策金利(Key benchmark lending rate)を150ベーシス引き下げ史上最低水準の3%とした。金利操作としては異例の大幅である。政策発動というのは、政策当局の意思表示の方法のひとつだ。異例の幅の利下げというのは、現状認識の厳しさを物語っているのだろうが、意思表示だけで実効が無いなら意味は無い。株式市場も為替市場も殆ど反応していないという事実を政策当局はどう判断しているのだろうか。

世の中のありとあらゆる物を貨幣価値で換算して市場で取引するというのが我々の生活の基本論理である。人々に欲があり、自分の所有物、所有者たる自分自身の価値を高めるという意志がある限り市場は膨張を続ける。20世紀の前半のわずか30年ほどの間に2度の世界大戦があり、世界は文字通り廃塵のなかからの再生を図ることになる。市場が成長する過程で、特定の有力国が世界に対して影響力を行使できるうちは、政治的意志による経済の操作はある程度可能であっただろう。しかし、市場が膨張を続ける一方、国家間のパワーバランスが変化をするなかで、そうした特定国家の政策の神通力は低下するのが自然というものだ。為替市場への中央銀行の介入が効果を発揮できなくなったのも、当初G5と呼ばれていた主要国首脳の集まりがG7になりG8になりG10になりというように規模が拡大し、それに比例するように実効性が希薄化するのも、同じことの別表現にすぎない。

政策当局の市場に対する介入能力というのは、実態としては殆ど無きに等しいのではないだろうか。政府の存在意義は、あくまで信用の付与である。下手に動いて無能力という実態を晒してしまっては、信用を失うことにもなりかねない。現況の危機の深さが深刻だから、それを利下げ幅で表現して見せるというのは数十年前なら有効であったかもしれないが、今の時代に通用するとでも考えたのだろうか? ここはひとまず75ベーシスくらいの通常よりやや大きめの利下げ幅にしておいて、流動性の確保や危機克服に向けた対応策に関して政府と連携しつつ、金融・財政・規制その他あらゆる面からの総合的な対策を図るというのが政策当局としてのまっとうなありかたではないのだろうか。BOE総裁が公の場で、現況が1929年の世界恐々よりも深刻な状況だなどと自分が経験していないことを引き合いに出して無責任な発言をしてみたり、今回の異例の幅の利下げといい、この国は狂っているとしか思えない。

ばばぬき

2008年11月05日 | Weblog
米国の新しい大統領が決まった。離れたところから見ている所為もあるのだろうが、奇妙な選挙戦だった。米国の大統領というのは共和党の推す候補と民主党の候補から選ばれることになっている。今回の選挙では民主党候補の選出ばかりが注目され、肝心の大統領選挙自体は、まるで出来レースのような印象を受けた。今回の選挙だけではない。前回の選挙では、逆に民主党候補の影が薄かった。現職のブッシュ大統領の支持率が高く、そもそも民主党側が不利だったので、本命となるべき候補を温存したという事情もあったかもしれない。穿った見方であるのは承知なのだが、米国のエスタブリッシュメントは自国が経済的にも政治的にも手の付けようが無いほど危機的な状況に陥っているのを承知しているので、大統領というポストを互いに押し付け合っているのではないかとさえ思えるのである。

現在の金融危機にしても、きっかけとなったサブプライム問題が表面化したのは現政権の終盤である。もちろん経済には周期というものもあるし、市場は有機体であるかのような動きをすることもあるので、意図的に操作できる余地というのは限られている。それにしても現政権にとっては問題の表面化は絶妙なタイミングだった、と思う。

今回の金融危機を見てもわかるように、経済の根幹は信用である。不動産価格は必ず上がるという幻想があり、その不動産を購入したいという人に金を貸せば、その人の所得が心もとなくても貸した金はそこそこの金利を伴って返ってくるはずだ、という合意のことを「信用」と呼ぶ。ただの紙切れであっても、日本銀行が1万円だというから1万円ということにしておく、という合意も信用だ。さらにその背後には日本銀行は国家の機関だという「権威」がある。この権威も信用のうちである。「あの人は信用できるから、安心して仕事を任せることができる」とか「うちの亭主は信用できないから小遣いは月5千円」というような一般的用法での「信用」とは微妙に意味が異なることを断っておく。

危機の中身は信用の失墜なのである。だから危機の克服には信用を回復させなければならない。各国の政府が財政出動によって破綻に瀕した金融機関に資金を供給したり、中央銀行が金利を引き下げて、金融市場に資金が潤沢に供給されるように誘導するのは、「ほぅれ、銭ならあんどぉ、心配すんなぁ」というメッセージを送って信用を支えるためなのである。信用が人々の合意である以上、心理的な要素も無視できない。この心理に大きな影響を与えるのが政治である。政治には高度な技術が必要だ。だからそこ、選ばれた者しか政治家になれないのである。

「朝三暮四」という言葉は政治の技術の一端を語っていると思う。猿使いが猿に「朝三つ夕方に四つのトチの実をやる」と言ったら猿たちが怒ったので、「それでは朝四つ夕方三つでどうだ」と言ったら猿は喜んだというのである。同じリソースでも使い方によって効果は全く違ったものになる。政治とはそうした技術によって目の前にあるものを最大限に膨らませて見せることだ。「バブル」という言葉は印象があまり良くないが、しかしバブルを作り、それを弾けさせずに保ち続けるのが政治なのである。最大多数の最大幸福というのは、結局のところはそういうことだろう。

かつてのような圧倒的な存在感は無くなり、少しばかり図体の大きな普通の国に成り下がった米国だが、金融市場においては世界の要であることにかわりはない。その国の元首が現状の危機を前にどのような舵取りをするのか、それによって世界の信用は従前以上に強固なものになるかもしれないし、再起不能なほどに徹底的に失墜するかもしれない。この時期に政権を担うというのは、最悪の状況かもしれないし、千載一遇の時かもしれない。結局はその「人」次第である。

小室哲哉がヒットをとばしていた頃

2008年11月04日 | Weblog
小室哲哉が逮捕された。最近その名前を耳にしないと思っていたが、やはり苦労していたらしい。一時期は、ヒットメーカーのような扱いをされていたが、実際にヒット曲を連発していたのは1994年から1997年にかけてである。すっかり過去の人だった。

氏が活躍していた頃、私は個人的に大変な時代だった。バブルが弾けて日本経済が急速に悪化を続けるなか、勤務先の悪足掻きに駆り出され、次から次へと押し付けられる慣れない仕事に右往左往していたものだ。迷走状態にあったのは私の勤務先ばかりではなく、同業他社も似たような状況で、なかには倒産するところもひとつやふたつではなかった。世間全体が右往左往していたようなものである。

それまで当然のように与党に君臨していた自民党が政権の座を降り、細川、羽田、村山と非自民内閣が続く。1996年1月に橋本政権が誕生したものの、自民・社会・さきがけの連立内閣だった。それまでの自民与党当然体制が崩れて変化したことのひとつに法案成立のプロセスがあった。それまでは官僚主導で利害関係の調整が行われ綿密な根回しの上に法案が国会に諮られるというものだった。国会に過半数を占める政党がなくなると、そうした従前の力関係を基にした仕組みが機能しなくなったのである。より具体的には、議員立法による法律が以前よりも容易に成立するようになったということだ。

産業界がこの機会を見逃すはずはなかった。こうしたなかで、私もある法案作成のための調査活動に駆り出されることになったのである。何もかも初めてのことばかりで暗中模索の日々だったが、今から思えば貴重な経験だった。そのときの法案は最終的にはある団体によってまとめられ、思惑通りというわけにはいかなかったが、なんとか成立して多くの人々がその恩恵にあずかっている。しかし、当時目指した本当の目標は未だに達成される気配すら感じられない。

余談になるが、この調査の一環で米国に出かけたとき、ロバート・マクナマラ氏にお目にかかった。米国商務省で事前に設定した会談があり、たまたま所用でお見えになっていたマクナマラ氏を相手方の人たちが私たちに紹介してくださったのである。私はある人の鞄持ちのようなものだったので、通り一遍の挨拶をさせて頂いただけだが、世界を動かすほどの権力を持った人は79歳になっても矍鑠としていて恰好良かった。

当時もけっこう混乱した世の中だったが、それでも今と比べれば牧歌的な時代だった。業績が悪いからといって突然解雇されるようなことも無かったし、社会全体にバブルの華やかなりし頃の残影があり、どこか希望も残っていたように思う。小室氏の楽曲も、そうした残り香のひとつだったような気がする。今、世界同時不況と呼ばれるなかにあっての氏の逮捕である。なにか巡り会わせのようなものも感じられる。