〈私は、罪深き、生存者です〉
その一行を書き出すのに、圭子は誇張なしに数日を要した。
そして、その後、激しい自責の念に捉われ、衝動的に、ペンで自分の甲を貫こうとした。
だが、それは数ミリほど喰い込んだのみで、軽い出血だけで治まった。
その生きている証(あかし)である痛みさえ、彼女にとって罪深い物だった。
なんで、私が生きて、あのお婆さんは死んだの?
自分は、あのお婆さんより若くて、未来があって、価値があるから?
(・・・・・・)
そんな自問の嵐が、彼女の心を責め立てていた。
自分は、あの老婆を、足蹴にした…。
それは、まさしく、芥川 龍之介が描く処の『蜘蛛の糸』のカンダタその人の所業である。
勧善懲悪の典型として、小学校の教科書にも出てくる話だ。
カンダタは「エゴイズム」の権化である。
(そうなのだ…。
わたしは、カンダタ…なんだ。
自己保身のために、あのお婆さんを死に追いやった、エゴイストなんだ…)
文学部を出、それなりの教養もある圭子は、自らの非人間的な振る舞いを恥じるには留まらず、死んでしまいたいほどの良心の呵責に苦しめられていた。
九死に一生を得たのに、死んでしまいたい…というのは、まさに皮肉な話である。
それと、断末魔の老婆の悲しげな目、恨みを抱いた目…が、消そうにも消せないイメージとして、彼女の人間性を蝕んでいた。
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